№111 秋天【その2】(ビル・エヴァンス『枯葉』)

のりプロ

あることに気が付いた。
目にとまったのは、敷地の出口、農道との境目の角に刺してある「杭」。

そういえば、こんなものがあったな、と思い出したのだ。
写真を撮っておこうと、停車して、車を降りた。

屋敷から、公道に出るまで、まだ数十メートル農道が続いている。

一車線の狭い農道だが、少しの間、そんなふうに私の車が、道を塞いでも、淋しいことに、今は、邪魔になる気遣いは無い。

その「杭」は、叔父がまだ生きていた頃、地元の教育委員会が設置したものだった。

「杭」とはいっても、立派なものだ。
10センチメートル四方ほどの太さで、高さは、人の背丈を超えるくらい。

四面に、それぞれ、縦書きで、何か書いてある。
思い返せば、昔、叔父から、何度も説明を受けた。

その土地は、戦国時代の、その辺りに領地を持つ殿様の、館があった場所だったらしい。
いわゆる「埋蔵文化財包蔵地」。

しばらく調査した後、杭を刺していったという。
その前から、歴史好きの郷土史家だとか、大学の学生だとかが、よく話しを聞きにやってきた。

知識人で、口も達者だった叔父は、彼らに説明することは苦にしなかったと思う。
まんざらでも無かったはずだ。

ただ、シニカルなところもあった叔父は、こんなものを建てられてしまったからには、今以上に、話しを聞きに来る人が押しかけてくるだろう。困ったものだ。

と、そんな形で、毎度、その杭の前での、話しを締めくくった。

当時、私は、話半分で聞いていた。
その杭に何と書いてあるか、ちゃんと眺めた記憶もない。

近付いてみれば、なるほど、正面に「埋蔵文化財包蔵地 ○○館跡」と記してある。
右側面には、「平成二十ハ年三月設置」。

平成28年(2016年)となると、10年前だ。
叔父は、20年近く前、平成20年(2008年)に、亡くなっている。

とするとこの杭は、叔父が亡くなった後、更新されたもの、ということになる。
見れば確かに、白いペンキの具合なども、新しくて綺麗だ。

左側面には、こんな文章が書いてあった。
「土地の現状を変更しようとする場合は、文化財保護法に基づく届出をする必要があります。」

なるほど。
行政が、こんな杭を設置したのは、いわば善意のお節介、だと思い込んでいた。
文化的に大事な土地です、という「案内板」的なもの、だと。

確かに、そんな意味もあるだろう。
しかし、むしろポイントは別のところにあったのだ。

「ここは、届出が必要な、規制がかかっている土地ですよ。」

そんなふうに「釘」を刺すための、「杭」だったわけだ。
また一つ、やっかいな問題を見つけてしまった。

ただ、この点は、考えようによっては、問題を解くヒントになるかもしれない、とも思えた。

杭は、いつのまにか、ちゃんと更新されていた。
行政としても、ほっておけない土地になっている、ということだ。

もしかしたら、持続的に、行政に面倒を見てもらえる場所にできるかもしれない・・・

5月の連休中、関東で暮らす、いとこのMとKの兄弟に会うことにした。
沿岸部のK市に、二人の実家が残っている。

両親とも亡くなり、空家となったその家を管理するため、二人は定期的に帰省してきた。
その予定に合わせ、私も押しかけて、一晩泊めてもらうことにした。

二人は私以上に、共通する思い出につながる、その旧家に対し、思い入れを持っていた。
飲みながら、その行く末について、相談しようと考えた。

二人に説明するためのペーパーを作っているうちに、一つ、面白そうな作戦も思いついていた。

いとこ達をメンバーにして、NPOを立ち上げたら良いのではないか。
活動目的を「その土地の景観を保持して、未来につなぐこと」とでもして。

実際は、年に一回くらい、屋敷に集まって、草刈りなどの清掃活動を行えばよい。

なにより、そんな活動の存在が、行政が、例えば公園として管理していこう、というような判断をする際の、ポイントにもなったりする。

飲みながら、私は、二人にそんなプレゼンをした。

Mは大手ゼネコンに勤め、一級建築士の資格も持っている。
史跡保護のNPOの代表には、丁度良い。

会長にしてあげるけど、どうか、と持ちかけた。
しかし、反応は薄かった。

Mはフナ釣りをこよなく愛していた。
大人になってからも、頻繁に、その旧家に泊まり、かってに長靴や自転車を持ち出して、近くの川へ出かけていたはず、だったのだが。

こんなことを言った。

近年、外来魚が急増し、フナはほとんど姿を消した。
今は、泊まる楽しみが無くなってしまったのだ・・・

酒が進むうち、Kの方が、不思議な角度から、食い付いてきた。
KはMの5歳年下の弟。私の年齢は、二人の間に挟まれている。

その旧家の一人娘の、いとこのHさんは、私達にとっては、綺麗なお姉さん的な存在だった。

Kは理系の某私立大学で、教授にまでなっている男なのだが、Hさんには、今も頭が上がらない。
下僕のような役回りを続けている。

Hさんは、一人暮らしの母親(亡くなった叔母)のことを心配し、Kに様子を見に行って欲しいと頼んでいたという。

「Kちゃんお願いね。大学の長期休みのときとか、何泊か泊まってきてちょうだい。可能なときでいいから。ね、お願い。」

独身の気楽さから、Kは、以前から(叔父が生きていた頃から)定期的に、その旧家に、数日滞在する、ということをしていた。

叔父、叔母とKの三人の夕飯時などに。
Kは、その旧家の歴史について、繰り返し聞かされていたらしい。

飲みながら、Kは何度も、憤慨してこんなことを言った。
「えっ、おじちゃんが何回も言ってたこの話、何で二人とも知らないの。」

Kの語るストーリーは、こんな内容だった。

その旧家の屋敷の裏、防風林の中には、一つ石碑が建っている。
大正時代に、ある著名な学者が建てたものだ。

私たちのひいおじいさんの時代、その学者が、屋敷にやって来た。
そして、こんな申し出をした。

この土地には、昔、館があった。自分の先祖の、殿様の館である。
その歴史を漢文で書いて、ここに石碑を建てたい。協力してほしい。

ところが、ひいおじいさんは、その学者が刻もうとしている、文章の内容に激怒した。

その学者は、こう理解していた。
殿様達が、この土地から立ち去った後に、ひいおじいさんの先祖が住み着いた。
学者と、ひいおじいさんの家系は、まったく別の一族。

その殿様の一族が、内乱に敗れて、その館を後にした、ということは史実として分かっている。

しかし、ひいおじいさんに言わせれば、赤の他人が、誰もいなくなったのをいいことに屋敷に住みついた、とは心外である。

血のつながりがあったからこそ、後を託されたのだ。(自分はそう聞かされてきた。)

現に、近隣の里山の中に、一族だけのお墓があって、我々の先祖は、それを密かに、守り続けてきた。ほとぼりが冷めるまで、身を隠せ、というような伝承の下で。

その後、学者と、ひいおじいさんとの間で、何度か手紙のやり取りがあって、石碑の文章は、一部改められた。そして、今に残った。

Kはそんなことを、語り続けた。
確かに、私も、叔父が、誰かに、そんな話しをしていたような記憶はある。

Kのこだわりは、つまりは、叔父が、ずっと持ち続けたこだわりなのだ。

叔父は、この話しを、生涯、何百回、人に話したのだろう。
いやいや、その上の世代から、何千回、聞かされて育ったのだろう。

そんな一族の想いを、こだわりとして受け継いでるのは、もはやKだけ。
そんな状況を考えると、ちょっと切なくなった。

そうであるならば。

私はどうすべきなのか、何ができるのか。
それが問題だ。

(「その3」へつづく)

2026年9月某日

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