№114 あさぼらけ【その1】(太宰治『桜桃』)

ちちプロ

どうやら大事(だいじ)には至らずに済みそうだが、こんな事件があった。

早朝、三時過ぎ、リビングの固定電話が鳴った。

普段、私は、隣の、畳の部屋で寝ている。
直ぐに目が覚めた。

出るつもりはなかった。
詐欺電話だろうと考えたからだ。

まもなく留守電のメッセージに切り替わった。
「あっ」と声がして、すぐ切れた。

しかし、直ちにまた、電話が鳴る。
そんなことが、数回繰り返された。

最近、迷惑電話が多い。
無視することに慣れてはきている。

しかし、こんな異様なパターンは初めてだった。

時差のある海外から、機械で、かけてきているのではないか。
それも、何か設定がおかしくなって、繰り返すのではないか。

或いは、嫌がらせの類(たぐい)だろうか。
もう、電話線を抜いてしまおうか。

そんなことを考えていると、今度は、枕もとの携帯電話が、ブルブルと反応した。

画面を見ると、二男からの電話を示す表示。
ライン通話。

もう出るしかない、と考えた。
スマホの画面をタップした。

いったい、どんな手口の詐欺だろう、などと考えつつ。

唐突に、若い男性が、話し始めた。明らかに、二男の声ではない。
こんなことを言った。頭の中を、様々な考えがかけめぐった。

自分は、〇〇消防署の〇〇という者だ。(ああ、如何にも詐欺っぽい。)
息子さんの〇〇さんから、救急に電話が入った。(まさか、火事?)
足と、手に力が入らない、ということだった。そこで〇〇病院へ、搬送した。(えっ?)
お父さん、今から、〇〇病院まで来れますか。(えっ?)

二男が一人暮らしをしながら、働き始めたその街は、高速道路を使っても、一時間以上かかる離れた土地である。

時間も考えれば、かなり異様な展開だ。
その男性と、それ以上に、会話を重ねることも、危険なように思えた。

病院に来られるか、という質問に対して「分かりました」とだけ返した。
そして、一つだけ、息子はどんな状況なのか、と質問した。

すると、男性は、医師の診察を受けているところである、ということを言った。
そして、二男の声を聞くこともなく、電話を終えた。

私は、やはり詐欺の可能性を考えた。
なにしろ、今、世の中は、毎日毎日、個人情報の流出のニュースであふれている。

一人暮らしの二男が、脳溢血のような状況になったとして、深夜、自分で目覚め、救急車を呼んだ、というのも、如何にも不自然なように思えた。

しかし、告げられた病院は、県立の大きな総合病院のはず。
とにかく行ってみよう。

仮に、変な男たちが待ち構えていたとしても、取り合わず、救急の外来へ、まっすぐ入ってしまえば、嘘か本当か、はっきりするだろう。
そう、心を決めた。

それでも、不安と迷いが募った。
のろのろ準備していると、長女が、部屋から出てきた。

なり続いた電話の音に、怯えていたらしい。
なにより、私が電話に出て、話し始めたことが、怖かったようだ。

二男のところへ行ってくる、と話すと、長女は、半べそで叫んだ。
『それ、絶対、詐欺だよ!』

大きな県立病院へ行くのだから、大丈夫という見込みを話すと、長女は、冷蔵庫の中から麦茶を出して、私のマグカップに注ぎ、レンジで1分、温めてくれた。

ある種の危機の中、長女なりに、頭を回転させてくれている。
ふと、成長を感じた。

ほのかに温かいお茶を飲み干し、バナナを一本食べ、家を出た。

雨交じりの寒い朝。
外は、まだ、真っ暗。

車に乗り込んでから、思い出した。
天気予報で、明け方、いよいよ雪が混じるかもしれない、と騒いでいたことを。

冬タイヤへの交換は、まだだった。
濡れて、黒く光る路面を凝視しながら、運転を続けた。

高速道路に入ってからも、スピードを上げる気持ちにはならなかった。
そもそも、高速道路も、80キロ規制になってる。

慎重に運転を続けながらも、様々な考えが頭をよぎった。
詐欺でないなら、それは、二男が、脳溢血の類を発症した、ということになる。

昔の同僚や部下にも、そんな状況になる人は、何人かいた。
リハビリを経て、ちゃんと仕事に復帰した人達も多い。
結局、程度の問題だろう。

二男には、お付き合いしている彼女がいる。

はっきり聞いたのは、つい昨年のことだ。
しかし、高校時代からの、長い付き合いらしい。

まだ、会わせてもらっていない。

急がせるつもりはなかったのだが、こんなことなら、早く会っておけばよかった。
リハビリで、彼女と、協力しながら、二男の世話をする事態も想定される。

もし、深刻な障害が残るような場合・・・
その未来は、もう彼女の人生に、背負わせることはできないだろう・・・

そんなことまで考えていた時に、ぼんやり見えていた、ヘッドライトの向こうの、闇に浮かぶ高速道路の風景。

きっと、この先、忘れることは出来ないだろう。

湧き上がる不安を、深夜ラジオで紛らしながら、先に進んだ。
こんなことも、頭に浮んでいた。

つい、数日前に、太宰治の「桜桃」を読んだ。
ごく短い文章である。

ジャンル上、小説なのだろうが、自殺直前の太宰の家庭の様子が、ほぼ、そのまま描かれている。
障害をもって生まれた長男に、心底、心を痛めていることが良く分かる。

お乳とお乳のあいだに、涙の谷・・・、と冗談を口にしつつ、必死で、小さな子供たちの世話を続ける奥さんのそばで、太宰は、自殺を考えている。

そして、それから間もなく、愛人と自殺してしまう。
この短編にちなんで、6月19日の命日には「桜桃忌」という名前が付けられている。

私は、今、こうして深夜、運転し、二男の下へ向かっている。

この後、どんな事態が待っていようとも、二男のために、その先の行動、現実の活動を続けることになる。母親兼、お父さんとして。

太宰も、そんな『現実活動』をする立場だったら、きっと、自殺している暇なんて、なかっただろうに・・・

深夜の、総合病院の、閑散とした、大きな駐車場に、たどりつく。

救急外来の入り口を探す。
どうやら、変な男達の姿などは、見当たらない。

「救急隊員」どころか、そもそも、人の気配がまるでしない。

開かないだろうな、と考えながら、恐る恐る正面の入り口の方に近づくと、それでも自動ドアが、静かに開いた。

(【その2】へ続く。)

2026年10月某日

 

 

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