№23 天声人語と死刑囚(ドストエフスキー『罪と罰』)

雑文

このブログの文章の一つのお手本は朝日新聞の「天声人語」だと思っている。
日課として、毎朝、複数の新聞にざっと目を通す。
近年、コラムまで読むことはないが、ある日の「天声人語」には、ふと目が留まった。

「死刑執行の告知を当日に行う現在の運用は違憲だ」とする死刑囚側からの申し立てを退ける大阪地裁判決について。

たまに読む、近年の「天声人語」の文章は、技巧的な感じが、少し鼻に付くことが多かった。
昔、入試問題などでよく目にした、名作とでもいうような文章と、つい比較してしまうからかもしれない。
考えてみれば、毎日毎日、芸術作品のようなクオリティーを求める方に無理がある。

しかし、その日の天声人語は強い文章だった。
死刑囚が、実際に作った俳句を幾つか引用する形で、重い話題を上手く展開していた。

人を殺せし掌(て)に小雀は安心す

雀では季語にならないが、小雀なら春の季語になるという。
指導を受けて、しっかり作った俳句なのだろう。

たまたま、このコラムに目が留まったのは、前日の夜、高校生の長女と一緒にテレビで見ていたからである。
そのニュースを見て、瞬間、長女はなんと声をあげて笑ったのだ。
「うけるー」と。

びっくりはした。
しかし、確かに、死刑囚なのにそんな裁判を起こしても無意味なのではないか、との理屈は、ある意味、もっともなことではある。
夕飯が、長女のお気に入りの、鮭とレタスのチャーハンだったことに、テンション高めとなっていたという事情もある。
しかし、笑って良いところではない。
と、思う。

死刑判決を受け、銃殺刑となる直前、恩赦を受けたというドストエフスキーの話しを持ち出して、少し小言を言おうかとも迷ったが、楽しげな気分を壊すほどではないかな、とも考え直し、そこでは止めることにした。

それにしても。
子供達に何か文章として残すとして、この続きに、私は何を書いておくべきか。

罪を犯したら償え、だろうか?

いや、それは違う気がする。
死刑という「行き止まり」の問題なのだから。
その天声人語の文章だって、結論自体は無かったはず。

罪、そして罰。

それこそ、ドストエフスキーを読んどけ、かもしれない。
そういえば、長男には文庫本を手渡して、既に読む事を勧めている。
私が読み直すために買った「罪と罰」の文庫本、上下二冊。

その時、長男は、案外素直に、少し嬉しそうに分厚い二冊の本を受け取ってくれた。
その後どれだけ読んだのかは分からない。
敢えて聞くつもりもない。

ずっと、長男には「罪と罰」を読ませたい思ってきた。
何故かと言えば、長男にラスコーリニコフ的な気質があると、内心、案じてきたからだ。

私にもある不安定さ。
密かに高いプライドと、自分の判断に対する危うい過信。
長男はそれを引き継いでいる。

私が初めて「罪と罰」を読んだのは大学浪人をしていた頃である。
現実逃避でもあったと思う。
探せば当時の文庫本も、どこかにまだあるはず。

数年前、気が向いて、同じ新潮文庫で買い直した。
活字が大きくなり、読みやすくなっていることに驚いた。

何故、そうしたかと言えば、最後の場面を読み返して、またソーニャに癒やされたくなったからだ。
ラスコーリニコフがソーニャに救われていく再生の場面に。

この最後のくだりは不要ではないか、と書いている作家のエッセイを読んだことがある。
言わんとする事は分からないでもない。

しかし、少し大げさに言えば、私の魂にとって、このシーンは、もはや無くてはならないものになっている。

若い頃読んで、その後も時々思い出してきたこの場面。
先般、読み返してみると、案外、短くあっさりとしていることに驚いた。
そんなものかもしれない、とも思った。
何となく聖書の簡潔な表現なども思い起こされた。

ドストエフスキーを読む事は、人間の持つ深淵を覗き込むことにつながる。
そんな事を必要としない人生のほうが、或いは幸せなのかもしれない。

本当に子供達に読む事を進めるべきなのだろうか、と少し迷う気持ちもある。

そもそも私がドストエフスキーを知ったのは、北杜夫さんのエッセイからである。
ラスコーリニコフが予審判事ポルフィーリーに追い詰められていくくだりを推理小説を読むような面白さで一気に読んだ、とあったと思う。

ここではかつて、北杜夫さんの文章が私を導いてくれたように、考えすぎず、こんなまとめ方で良いのかもしれない。

若い人達よ、ドストエフスキーはとにかく面白いから、一度、読んどけば?

2024年4月某日