№15 新聞とテレビCM(立花隆『立花隆の最終講義』)

ちちプロ

正月の大手新聞社のテレビコマーシャルに、こんなものがあった。
振り向いた少女にコメントが重なる。

「信じてもいいですか。○○新聞」

ちょっとびっくりした。
実は信じてはいけないことが幾分かでも混じっていたのだろうか。
少なくとも建前としては、新聞は中立公平に、事実を報道しているのではなかったのか。
それは信じる、信じない以前の問題ではないのか。

自分を信じろと強弁する人ほど、騙す気満々だったりする。
信じて欲しいというメッセージは、つまりは自分自身で、少なくとも一定のバイアスがかかっていることを認めていることになる。
新聞社がその立ち位置になってしまって良いはずはない。

恐らくは、SNSなどで拡散するフェイクニュースの問題などに対して、新聞の信頼性を訴える意図なのだろうとは思う。
若い人の新聞離れに対する危機感も深刻である。
CMの前提として、おじさん世代の新聞に対する感覚など二の次なのかもしれない。

そもそも大手新聞社の全国紙といえども、中立公平に、事実を機械的に記事にしているだけかというと、それはもちろん、そうではない。

仕事柄、毎朝、複数の新聞にざっと目を通すということを日課にしている。
つくづく新聞の中立公平ということが、ある種のフィクションであることがわかる。
思想的な、右、左の影響が、同じ出来事の報道であっても、見出しの言葉の選び方の違いなどとして、しばしば露骨に顔を出す。
例えばそれは、コップに半分入っている水を、「もう半分しかない」と表現するか、或いは「まだ半分もある」と表現するか、といった違いとして現れる。

数日前、散歩の途中に立ち寄った図書館で、たまたま立ち読みした立花隆さんの大学生に対する講演録の一節にこんな主旨のものがあった。

ある種の思想や宗教は、時に強烈な魅力を持って若者を捉える。しかし、一つだけを盲進してはいけない。絶対はない。他も見比べて自分の頭で考えることが大事だ。

本の題名をネットで暫く調べてみたものの、古すぎて上手く検索できない。
「東大生と語り尽くした6時間 立花隆の最終講義」という新書なら手に入りそうだ。
70歳の時点でまとめ直したものらしい。

私がそのCMにぎょっとしたのは、この時の立ち読みの影響があったからだ。

「これが正しい情報だから、我が新聞社の記事を疑わず信じて欲しい」
そのメッセージを、女子高生らしき少女に言わせる。
少し怖いことなのではないか。
立花隆さんの論旨と、丁度、反対の方向へ向かっていくことになる。

正月休み中のその時間帯、我が家の女子高生と、一緒にテレビの前にいた。
何度か流れたそのCMも、お気楽な彼女の耳には、完全に右から左だったとは思う。

しかし、潜在意識にすり込まれるのが怖い。
CMとは本来そういうものでもある。

そう思って、ここに書き留めておくことにした。
自分の頭で良く考えて、納得できる人生をつかみ取ってほしい。
いつも、そう願っているから。

2024年1月某日

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