№72 蜂(志賀直哉『城の崎にて』)

のりプロ

事務所の庭が、雑草であふれている。

両親が暮らしていた頃だって、それなりに雑草はあったはず。

そんなふうにも思うのだが、10年程前の、庭で子供達が遊んでいる写真などを、たまたま目にしたとき、毎度、すっきりとした様子に驚かされる。雑草らしい雑草はない。

庭木のボリュームも抑えられている。自分で作業するようになって、それがどれだけ手間のかかることだったのか、ようやく理解できるようになった。

雑草も伸びるが、春先から、花木(かぼく)も、順番に、鮮やかな花をつけている。

早々に、木蓮に、紫の花が咲き、雪柳の枝先が、沢山の白い花であふれた。
庭のあちこちに植えてある、ツツジも順に咲いた。ツツジとサツキはとても似ている。未だによく区別できないが、季節的な順番を考えると、まだ、いくつか花を咲かせている株が、つまりは、サツキということだろう。

アジサイも、咲いている。両親とも好きで、増やしていた。
アジサイと言われて、思い浮かぶ、球形の、いわゆる「西洋アジサイ」の他に、我が家では「ガクアジサイ」も多い。

昔、まだ私の子供が小さかった頃。
外で遊んでいる子供達の様子を見るため、私が、庭に出たタイミングなどで、よく母親がこんなふうに、話しかけてきた。

「これはガクアジサイ。こっちがむしろ、日本の原種なのよ。」

手まりのような形の、アジサイの花に見える部分は、実は萼(ガク)が変化したもの。
装飾花とも呼ばれている。
日本古来のガクアジサイを、海外で品種改良して、日本に戻ってきたものが現在、よく見かけるアジサイなのだ。

ガクアジサイは、むしろ、平べったい形である。
真ん中の、小さく丸く、ぷつぷつとした本当の花を、装飾花が取り囲んでいる。
それが額縁のように見えるから、「ガク」アジサイなのだ。

アジサイは土が酸性か、アルカリ性かで花の色が変わる。我が家でも赤紫、白、青紫と同じ庭ながら、場所によって様々な色の花が咲く。
爽やかな、深い、青紫色のガクアジサイには、毎年、一瞬、見とれるような気分にさせられる。

母が育てていたバラも、盛んに花を咲かせている。今が、今年前半のピークだろう。
チャイナローズという品種。じょうぶで花付きも優秀。
一旦、ピークを過ぎても、ポツポツ咲いて、長い期間、楽しませてくれる。
そして、秋にまた、まとまって花を咲かせ、そして、冬に入る。

母親の認知症が重くなり、その後、施設に移った数年間、手入れが行き届かなかったバラは、背丈が伸びすぎてしまっている。先端に花を付け、重そうな枝も多い。今は、咲き終わった枝を見計らって、少しずつ切り詰めているところである。

茂りすぎたバラの株は、蜂にとって、ちょうどよい巣の造り場所となる。

何だか、いつもより蜂が多いな、と思うようなとき。
目をこらすと、大抵、小さなアシナガバチの巣を見つける。
両親から庭作業を引き継いだ頃、そんなハチの巣の発見は、毎度、衝撃だった。

その後、落ち着いて調べていくと、スズメバチと異なり、アシナガバチは随分と友好的である、ということが分かってきた。確かに、自分から、襲ってくることはない。

先般も、バラの枝の内側に、小さな3㎝ほどの巣を見つけた。女王蜂が営巣を始めた直後らしい。まだ一匹だけで、作業している。

静かに様子を観察していると、一つ一つの巣穴に頭をつっこんだりしながら、かいがいしく手入れをしている。こちらを気にする気配は、まったく無い。

可愛そうにも思ったが、ハチが増えて、バラの手入れに支障が出てはこまる。
少し遠くの枝を、そっと、ぱちり、と切り離した。

枝と一緒に巣が落ちて、雨にあたるようになれば、女王蜂もあきらめてどこかへ行くだろう。
基本的には、益虫である。アシナガバチそのものを、駆除したい気持ちはないのだ。

玄関脇の、ひさしの下に、一匹のスズメバチが巣を作りはじめたのを見つけたこともあった。
これには、流石に慌てた。

暫く呆然と見上げていると、作業していたスズメバチが、一旦巣を離れた。本能的に体が動き、父親が野菜作りに使っていた園芸用の、緑の長い棒を使って、巣をはたき落とした。そして、慌てて家の中へと隠れた。スズメバチだけは、本当に、やばいのだ。

家の中にハチが入ってくることは、ない。

ところが、先日、トイレの床に、一匹、アシナガバチがいるのを見つけた。これも慌てた。瞬時に、スイッチが入った。家の中で、共存はできない。
スリッパを一つもち、力を込めて、瞬時に、バチリ。

後々まで、いやな感触が残った。

志賀直哉の「城の崎にて」という短編小説がある。
実際に、山手線に跳ねられて大けがをし、療養のために城崎温泉(きのさきおんせん)に出かけた際の、静かな気持ちを書いたものである。

ある日、直哉は、忙しく働いている蜂の横で、一匹の蜂が静かに死んでいるのを見つける。逗留(とうりゅう)していた自分の部屋から見える、宿の、玄関の屋根の上で。

「忙しく立ち働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向きに転っているのを見ると、それが又如何にもしんだものという感じを与えるのだ。」

施設に入っている、私の母親。
この数年、自分で食べることはなくなった。脳が、そういう体の動かし方を指示できなくなったのだ。それでも、介助してもらって、食べ物を口にはこんでもらえば、反射的にもぐもぐやって、飲み込むことはできた。そうして、生きていた。

しかし、この春、そうやって飲み込むことも、次第に難しくなってきた。嫌がるようになった。

5月始めの週末、主治医の元で、私と妹と、話し合いを行った。
主治医は、こんなふうに話した。

嫌がるのを無理に食べさせると、いわゆる誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)のリスクになる。直接的な死因につながるので、施設は困る。
管を使って、強制的に、体の中に、栄養を入れる、という方法はある。
しかし、家族は、何より本人は、それを望むのか?

我々の考え方は、少しでも苦しみを少なくして、静かに最後の場所へ辿り着かせてあげること。
それに尽きた。

まったく食べられなくなったら、点滴をして、水分だけは補う、という方針を決めた。
それが、5月始めの週末のこと。

その後、母は、また気が向いたように、少し、食べ始めるようにもなって、我々をほっとさせた。
ぐらついていた歯を一本抜いてあげたことが、きっかけだった。
どうやら、自分の歯を異物と感じて、飲み込むことを拒んでいたらしい。

しかし。
6月後半。
施設から、いよいよ、点滴を開始する、との連絡があったのだ。

志賀直哉の「城の崎にて」。
最後に、散歩の途中で、道ばたで見かけたイモリとの出来事が綴られている。
直哉は、石の上で、じっとしているイモリを、驚かせて近くの水の流れの中へ入れようとする。
しかし、投げた石が偶然、イモリにあたって死んでしまう。

「もう動かない。イモリは死んで了った。自分は飛んだ事をしたと思った。虫を殺す事をよくする自分であるが、その気が全くないのに殺して了ったのは自分に妙な嫌な気をさした。」

「自分は偶然に死ななかった。イモリは偶然に死んだ。自分は淋しい気持ちになって、漸く足元の見える路を温泉宿の方に帰って来た。遠く町端れの灯が見えだした。」

「生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。もうかなり暗かった。視覚は遠い灯を感ずるだけだった。」

水分だけの点滴になっても、人は急に亡くなるわけではない。
数日おきにのぞきにいっても、母は、大抵、静かに寝ている。

じりじりとした日々が続いている。きっと、妹もそうだろう。
苦しまなければそれで良いと、単純に割り切れるものでは、決してない。

アシナガバチの子育ても、本当は、そっとしておきたいのだ。

2025年6月某日

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