私の住むまちから、100キロほど南。
I市は、私の母親の、実家があった、まちである。
「実家があったまち」と、過去形にするべきか、今、微妙な状況になっている。
旧家に、一人暮らしていた叔母が、昨年、亡くなってしまったからだ。
母親が高校まで過ごした、その大きな農家屋敷は、今は、空家になっている。
私が小学生の頃、盆に正月、学校の長期休みには、家族で必ず泊まりに行った。
親戚達も集まった。私と同年代の、従兄弟達もやって来た。
何家族も寝泊まりできるくらい、大きな屋敷だったのだ。
玄関前の庭先には、井戸があった。
電動ポンプはもちろん、手押しポンプなども不要の、水が湧き出し続ける、いわゆる自噴井戸。
子供の背丈くらいの高さから、地上にある、一メートル四方、深さ30センチ程の四角い水槽へ、井戸水が、絶えず流れ続けるような構造になっていた。採れた野菜を洗ったりするのに、都合の良い造りにしたのだと思う。
常に周囲に、どぼどぼと水が流れる音を響かせていた。
夏は、その井戸の水槽に、取れたてのトマトやキュウリが冷やしてあった。
誰かが買ってきたスイカが、丸ごと冷やしてあったりもした。
地下から汲み上げた水は、年中温度が一定で、冬は暖かく、夏はキンと、冷たかったのだ。
井戸の水は、どこへ流れていくのか。
水槽を溢れた水は、直ぐ隣の、縦2メートル、横4メートルほどの池へ注いだ。
その池の水は、さらに、庭の小径(こみち)の下に埋めてある管を伝って、直径数メートルの、大きな池へと注ぎ込む。
それは、昔、おじいさんが、観賞用のコイを飼っていた池だった。
さらに井戸水は、敷地の外の、道の下をくぐり、ため池へと流れていた。
ため池の先には、その屋敷の、畑や田んぼが広がっていた。
母親の実家は、戦後の農地解放まで、一帯の大きな地主だったのだ。
母親は、七人兄妹の末っ子だった。
本家を継いだ長男(私の叔父さん)夫婦が授かったのは、女の子、Hさん一人だけだった。
小さかった私から見れば、歳の離れた、綺麗なお姉さんだったHさん。
ほどなく東京の大学へ進学してしまった。
その後、大きな会社に就職し、結婚。
相手の戸籍に入り、姓もかわった。
叔父と叔母の夫婦は、その結婚に、随分と長い間、反対していた。
十数代続いた家が、途絶えてしまうからだった。
しかし、最後は折れた。
いつもニコニコと、話し好だった叔父。
低い背丈の、コロリとした体型。優しい目元。
笑顔になったときに、特に突き出る、丸い頬が印象的だった。
気の良い叔父だったが、結婚式の食事には、最後まで、手を付けなかったらしい。
今から18年程前、その叔父も亡くなった。
その後、叔母は、一人で、その屋敷で暮らし続けた。
叔母は、近くの村から、22歳の時に、嫁いできた。
それは、私の母親が、まだ小学生の頃。
母親は、叔母のことを「ねえさん」と呼んでいた。
舅小姑(しゅうとこじゅうと)沢山いる家に、一人、入ってきた叔母。
お姑さんには苦労させられた、という話しも聞くが、叔母自体、ちゃんと強さのある人だった。
賢さもあった。
叔父が亡くなった後、しばらくして。
長く続いたこの家が、自分の代で途絶えることを考えはじめると、眠れなくなると、ふと私に、つぶやいたことがあった。
10か月ほど前の7月。私の母親が亡くなった、その二日後。
不意に、その叔母も亡くなってしまったのた。
私の母親と叔母の間で、こっそり、こんな会話をしていたのではないかと、一人、想像している。
『ねえさん、私そろそろ、逝くことにしたから。じゃね。長いことお世話になりました。』
『えっ、そうなの。やんたー。まって、Nちゃんがいくなら、私もいくから。』
そう思ってしまうほどに、直前まで、叔母は元気だったのだ。
ちょうど、一年前。
叔母が入っていた老人施設を、訪ねたことがあった。
子供の頃から仲の良い、それぞれ関東に住む、従兄弟のMとKと、私の男三人で。
叔母は、95歳になっていた。
面会室で待っていると、叔母は、杖を使いながらも歩いてやってきた。
私達と、ちゃんと世間話もできた。
その頃、私の母親は、静かに、最後の時を待っているような状況だった。
母親と比べ、叔母は、まだまだこちらの世界に、長くいる人のように思えた。
それが、5月の連休のことだった。
その前の夜、私達、男三人は、どうしたか。
実は、住人のいないその屋敷に、泊まったのである。
MとKは、三人で飲んだあと、そのまま炬燵で雑魚寝した。
私は、庭に停めた自分の車で、車中泊をした。井戸の音を聞きながら。
釣り好きのMは、その前年、叔母が施設に移った後も、ちょくちょく勝手に、その屋敷に泊まって、近くの川でフナ釣りをしていたらしい。
家屋敷の相続人の、一人娘のHさんも、夫のMさんと二人で、定期的にやって来て、家の管理を続けてはいた。
私より年下のKは、我々にとって、逆らえないお姉さんという位置付けのHさんに対し、今でも、下僕のような関係性となっている。
その少し前、Hさんから、Kに電話があり、あるミッションが伝えられた。
それは、こんな内容だった。
連休の前に、Hさん夫婦が、その屋敷に暫くぶりに行ったら、家中、とても汚れていた。
どうやら小動物が入り込んで、糞をしたり、悪さをしまくったらしい。
どうにか二人で掃除はした。見ると、廊下の角の天井に穴が空いていた。小動物は、そこから出入りしているようだ。ハクビシンではないか、と見ている。
そこで、Kちゃんにお願いがある。
ゴールデンウィークに、屋敷に泊まるなら、廊下の天井の穴を塞いでくれないか。
近くのホームセンターから、ベニヤ板など道具は買っておく。高齢となった我々夫婦には荷が重い。悪いけど、よろしくね。
フナ釣りを目的に合流したM(Kのお兄さん)と、暫くぶりに三人で飲みたかっただけの私も、そのミッションに巻き込まれた。
我々三人は、そうして、廊下の天井を直したり、井戸の補修をしたりした。
布団を使うと、Hさんに迷惑だろうと、MとKは炬燵で寝た。
その翌日、私の車で、叔母の施設を訪問し、その後二人は、新幹線で、東京へと帰った。
そういえば、その時、外の納屋の中で、ついタヌキの死骸を見つけてしまったりもした。
暫く、三人で顔を見合わせた後、このままにはできないなと、近くに穴を掘った。
錆びた干し草フォークや、スコップを見つけ、それぞれに持ち、死骸の下につっこんで、せーので持ち上げた。穴に運び、そして、埋めた。
その時はタヌキだろうとの話しにはなったが、今思えば、家の中を荒らし回っていたハクビシンだったのかもしれない。
考えてみれば、叔母が暮らしていた頃までは、日々ゴミも出たりして、小さな動物達も、食べ物には困らなかっただろう。畑で野菜も育てていた。
叔母が施設に移り、人の生活が途絶え、小さな動物達も、急に困ったはずだ。
もしかしたら、そうして、飢えて死んでしまったのではないだろうか。
そんなことを想像してしまうほど、その屋敷周辺の、人の営みは、急激に細くなっている。
私達が小学生だった頃のように、空間は広がっている。
田んぼや畑の区画も、そのままだ。
しかし、広々とした土地だけが残っていて、そこではもはや、米も野菜も作られてはいない。
近くに点在する農家屋敷も、似たり寄ったり。
空家だったり、高齢の人だけとなっていたり。
今や、タヌキも食べ物を探すのに困るほど、何も生み出さない、茫漠とした大地。
それは、思い浮かべれば、とても寒々とした光景だ。
ところで。
今も、活躍を続ける、タモリさん。もう80歳だという。
私の子供達とも、音楽番組の司会のおかげで、共通の理解がある。
子供達は知らないと思うが、大学時代、ジャズ研究会で、トランペットを吹いていた人だ。
その延長で、昔は、テレビで、大人の音楽バラエティーなどもやっていた。
NHKのFMで、ジャズの名曲を流す番組も持っていた。
そのFM番組のオープニングの曲は、ジョン・コルトレーンのMy Favorite Things(マイ・フェイバリット・シングス)だった。
未だにこの曲を、YouTubeで、頻繁に聞いている。
My Favorite Things。邦題なら「私のお気に入り」。
もともとは、ミュージカルの「サウンド・オブ・ミュージック」で使われた曲だ。
今思えば、タモリさんも、好きな曲を流す番組のオープニングに、その意味も相応しいと考えて、選んだのだろう。
I市の、母親の実家の、その屋敷には、昔々、大きな欅(けやき)の木があったという。
ケヤキは、別名を槻(つき)ともいう。
このため、その屋敷は、周囲から、大槻(おおつき)のお館と呼ばれていたらしい。
そんな歴史を持つ、大槻の屋敷も、雑草に埋もれて、廃墟になってしまう未来が、今や、現実のものとなりつつある。
時間は、あまり残されていない。
諦めずに、何か手を打たないと、と思っている。
ただ、一人で苦労を背負い込む、そんな悲壮感では、結局、何も形にならずに終わるだろう。
面白そうなこと、興味を持てること、つまりはマイ・フェイバリット・シングスを、どうにか手掛かりにして、それを辿って、形を目指すべきだと思う。
その屋敷の土地には、どうやら史跡が埋まっているらしい。
家の裏には、それを伝える、古い石碑も残っている。
個人的にも、興味をそそる展開だ。
同時にそれが、社会にひっかかる、何らかの手掛かりになるのではないか、とも考えている。
漢文だが、そこには、こんな意味の、一文がある。
昔、石碑を建てた偉人も、やはり、同じような気持ちだったのだと思う。
歳月悠久にして、遺址(いし)の湮没(いんぼつ)を恐る
2026年5月某日
