午前中、人と会う約束があった。
朝、事務所に出て、出かける準備を整えた。
少し、緊張を感じる用事だった。
同業者と一緒に、ある施設を訪問して、行事の周知をお願いする、というもの。
後日、幾つかの会場で、我々の仕事に関する、相談会を行うことになっていた。
併せて、ちょっとした講演会も行うという企画。
その前段階として、関係の機関に、ポスターを貼ってもらったり、チラシを置いてもらったりするため、数名で、手分けして、回って歩こう、という流れ。
相談会も、その前の周知活動も、私にとっては、はじめてのことだった。
例年行っている、その取組に、同業者から、よかったら参加してみませんか、と誘われたのだ。
また、一歩、未知の世界に、入ることになる。
はたして、どんな展開に、なっていくことか。
メールチェックなども終わったが、待ち合わせの時間には、まだ少し早かった。
ノートパソコンの、目線の先の、庭に目をやった。
今日は、雀は来ているだろうか。
雪が溶けた後も、庭の中央部に、平らなスペースを確保して、小鳥用の餌を、毎朝、少しだけ、撒いている。
雀は、今も毎日、餌をつつきにやって来てくれる。
その場所を取り囲むように、今、庭は水仙であふれている。
花も咲いているが、むしろ今は、ニラに良く似た、細くシュッとした、その葉っぱで込み合っている。
亡くなった私の両親が、好きで、増やしたのだが、その後、ほったらかしにしていたら、球根が分かれて、どうにも増えすぎている。
過密のために、年々、明らかに花の付きも悪くなっている。
そろそろ、何とかしないと、とは思っている。
水仙の花が、ピークを過ぎる頃、水仙の間に、白く、小さな花が咲き始める。
スズランによく似た、スノーフレークという花である。
母親が育てていた花だ。
既に、今年もだいぶ、咲いている。
1㎝ほどの、小さな鈴のような、白い花。
一つの細い茎の先に、幾つか、下を向いて花をつける。
うつむきながら、わずかな風にも、ゆらゆらと揺れ続ける。
毎年、庭でこの花を見つけると、スズランではなかったろうか、と気になってくる。
スマホで検索したりして、毎度スノーフレークです、という回答にたどりつく。
今年は落ち着いて、もう少し、その先をネットで調べて見た。
見れば、スズランとは、葉の形が、明らかに違う。
スズランの方は、もっと楕円で、葉の中央が大きく膨らんでいる。
スノーフレークの花びらの、少しとがった先端には、とても小さな、緑の点があるのだが、これも、スズランには無い特徴である。
スノーフレークの和名は、「鈴蘭水仙」というらしい。
なるほど、鈴蘭によく似た花と、水仙そっくりの葉っぱを持つ植物、ということなのだろう。
何より、亡くなった母親が、毎年春の庭先で、これはスノーフレークっていうのよ、と確かに言っていたな、と思い出す。
日本のシンガーソングライターで、アン・サリーという人がいる。
少し前、THE BLUE HEARTS(ザ・ブルーハーツ)の「手紙」という曲のことを調べていて、私は、そのときはじめて知った。
フェスで歌う、アン・サリー版の「手紙」が、YouTubeにアップされている。
良い風が吹いていそうな、そんな動画なのだ。
今まで、気が付かなかったが「おおかみこどもの雨と雪」という映画の主題歌(おかあさんの唄)も、アン・サリーが歌っていたようだ。
印象に残る映画だった。
シングル・マザーの母親が、狼男の血を引く、二人の子供を、田舎の自然の中で育てる、というアニメ作品。
数年前に、テレビで見た。
見終わった後、ああ面白かった、とは思った。
ただ、少し、もやもやとした気分が残った。
何がひっかかるのか、その時は、それ以上、深くは考えなかった。
女の子(雪)の方は、野生の血を残しつつも、人間の世界で生きていく選択をする。
友達との葛藤などを乗り越え、不器用で心優しいボーイフレンドにも、やがて受け入れてもらう。
その展開は、多くの人を納得させる、定番の心地よさだと思う。
多分、そこに、もやもやは残らない。
一方、一歳年下の弟(雨)のストーリー。
気弱で、「オオカミってどうしていつも悪者なの?」と泣きべそをかいていた、雨。
きっかけをつかんで、野生の力に目覚めていく。
そして、自然の中で、生きていく未来を選ぶ。
山の奥深くで、長く生きる、キツネが、雨の先生なのだ。
そのキツネは、安易に、擬人化して描かれることはない。
人の言葉も話さない。
それは、普通の人間の、お母さん(花)には、ついてはいけない世界なのだ。
今、思えば、この演出が効いている。
そしてそれが、見る側の、もやもやの原因にもなる。
泣き虫でかわいかった、あの「雨」が、たくましくなって(見ている私たちにとっても)手が届かない世界へと、去って行ってしまう。
「花」の目線に、感情移入していると陥る、ある種の喪失感。
考えてみれば、それは「おおかみこども」でなくとも、誰の子育てにも訪れる、リアルな未来、なのかもしれない。
子供は、必ずどこかで、親の作った枠を超えていこうとする。
自分の手が届かない世界へ、子供が、跳躍しようとするとき。
親はどんなことを思うだろう。
もう、おれは(わたしは)手助けしてあげられないんだぞ(あげられないのよ!)
それで、いいのか(それで、いいのね?)
それでも、子供は止まらない。
親ならそんな時、喪失感と同時に、きっと満足感や、誇らしさを感じるのだと思う。
思えば、一年前、私のところも、長男と二男が、それぞれ、自分で部屋を探して、そして、家を出て行った。
今はそれぞれ、元気にやっている。
さて。
そろそろ、出かける時間になった。
コンセントを抜いたり、レースのカーテンを引いたり、戸締まりしながら。
その日の朝のNHKの、スポーツコーナーのことを思い出していた。
長い間活躍し、ついに引退を決めた、あるアスリートの特集のことを。
この4月に、新たな生活を始めた人達へ、何か一言お願いします、と振られて、そのアスリートは、こんなコメントを返していたのだ。
苦しいことは多い。しかし、それは、見方を変えれば、楽しみにもなる。
上手くいかないのが普通。でも、駄目だった時、それを、すぐに「諦め」に、つなげないでほしい。「駄目」と「諦め」の間には、工夫してみる過程がある。そのトライ・アンド・エラー自体を楽しんでほしい。
なるほど。
丁度、今日、私も、まさに新しい仕事の始まりに、少し緊張を感じているところ。
しかし、もしかしたら、何か、気の利いた出会いなども、あるかもしれない。
私の三人の子供達。
それぞれに、新しい世界を進んでいる真っ最中。
できる限り、私自身も子供達と同じように、試行錯誤を続ける、社会の中の、構成員の一人で、あり続けるようにしよう。
そうすれば、たまに息子達とご飯を食べるような時も、同じ目線で、情報交換できるかもしれない。子育てが終わる寂しさに、身動き取れなくなったりもしないだろう。
そんなことを考えながら、事務所の玄関を出て、ドアの鍵を閉めた。
2026年5月某日
