このところ昔買った、夏目漱石の文庫本を引っ張り出して、読んでいる。
学生の頃、定期的に、漱石の文章が読みたくなった時期がある。
文庫本を一つ読み終えて暫くすると、また何か読みたくなった。
簡潔な文章の調子だとか、ユーモア、或いは会話の雰囲気に、ちょっとした中毒になっていた、というようなことかもしれない。
作品の多くは、朝日新聞で、日々、連載されたものである。
漱石の文章を読まないと、なんだか調子がでないな。
習慣になり、そんなことを思う勤め人なども、当時、案外多かったと思う。
新聞に掲載する都合上、1日の文章の量が、決まってくる。
文庫本になっても、それが話しの区切りになるから、読みやすいのだ。
当時、漱石にしては分厚い「吾輩は猫である」の文庫本も買ったのだが、結局この本だけは、読み終えることなく、就職することになった。
働き始めてからは、読書そのものから遠ざかった。
「吾輩は猫である」の文庫本を、本棚の奥から見つけて、最後まで読み通したのは、つい数年前のことである。
昔、どうして挫折したのか、ようやくその理由にも気が付いた。
後年、新聞で発表された作品のように、短い、話しの区切りがないので、とにかく読みづらい。
会話文もごちゃまぜで、改行のない文章が、延々続く箇所も多い。
漱石が初めて書いた作品である。
仲間内で朗読した一話目の評判がよくて、二話、三話と書き継いでいったようだ。
どうやら、行き当たりばったりで。
長い物語の、その結末も、唐突だ。
主人公の猫は、主人達の飲み残しのビールを、夜、見つけてこっそり飲んで、酔って気分が良くなり、庭の大きな甕(かめ)の中に落ちて、溺れて死んでしまう。
本当に、ただ、それで終わってしまうのだ。
手元の文庫本を、改めて、ところどころ拾い読みしてみると、それでも確かに、その断片、断片の文章は、漱石流のユーモアがあって、小気味よい。
なにより「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という書き出しが、秀逸だ。
猫の目線から語られる、その話しの進め方には、不思議なほど、今も、古さを感じない。
私が、日々過ごしている、この事務所。
庭の花壇の中央に、平らなスペースを確保して、今も毎朝、少しだけ野鳥用の餌を、撒いている。
思いつきで、この冬、はじめたものだ。
三か月ほど前。
その頃、庭先は、まだ雪に覆われていた。
事務所のデスクから、自然に視界に入る庭の雪を、かき分けて、土が露出するようにした。
そして、そこに小鳥用の餌を撒いた。
どうやら、野鳥にとってその時期、地面の黒い土自体が、貴重なようだ。
雀だけでなく、普段、庭先まで降りてくることのない、ヒヨドリや、ツグミなども、時々姿を見せた。キジが、ゆっくり歩いて、すぐ先を横切って、驚いたりもした。
根雪が、溶け始めた頃、その場所に、園芸用の直径30㎝ほどの、丸いプラスチック製の皿を置いた。中に、深さ2㎝くらいの水を張って。
皿の中には、重しにするために、握りこぶしくらいの、石を置いた。
波に洗われて、ほどよく丸みを帯びた、手触りの良い石、二つを。
その石は、M市の海岸で、拾ってきた。
いつか小鳥が、そこで水浴びしてくれないだろうか、と考えて。
その頃はまだ、夜の間に、氷が張った。
毎朝、氷を捨てて、新しい水に取り替えた。
少し、警戒する様子もあったが、直ぐに、雀が集まるようになった。
慣れてくると、雀は、私の置いた石の上に、ちょんと飛び乗ったり、餌を食べる合間に、水を飲んだりするようになった。
鳥が水を飲むときは、くちばしですくって、上を向いて、喉に流しこむ。
時々、ハシボソカラスも、やって来て、同じように、上を向いて水を飲んだ。
水が凍るような時期は、水場を探すのにも苦労するのだと思う。
思えば、皿を置いた後、初めて水を飲みに来たのは、近所の猫だった。
その日、庭に、皿を置いたことを忘れて、日中、ノートパソコンに向かっていたら、目線の向こうで、大きめの物体が動いたことに気が付いた。
少し、びっくりして、顔を向けると、茶白(ちゃしろ)の猫が、水を飲んでいた。
そもそも、事務所の周りには、何匹か、猫がいる。
この家を、事務所として使い始めた頃、デスクで作業していると、庭先を、決まったルートで、ゆっくり歩く猫がいることに気が付いた。
はじめは、きっと近くの飼い猫だろうと考えていた。
しかし、野良猫のようでもあり、はっきりしない。
玄関の脇に、猫用の煮干しを置いてみたりして、仲良くなろうと試みているのだが、警戒心が強くて、私が外に出ると、どの猫も、決まってすぐに逃げてしまう。
私の母親が、元気だった頃、それでも、そのうち何匹かは、母親に、なついていたのではないかと想像している。それらしい出来事もあったからだ。
数年前、両親が施設に移り、私が、家と庭の管理を、手探りで始めた頃。
ある休みの日、私は、庭先の水道の前にしゃがみこんで、洗い物をしていた。
ふいに3メートルほど左横に、すまして座る、麦色(薄い茶トラ)の猫に気が付いた。
私の方向に、まっすぐ体を向けて、何かを、待つような気配。
草刈り機を分解して、洗っていたところだった。
手が離せず、そのまま作業を続けた。
すると、その猫は、あれ、いつもと違うぞ、というような雰囲気で、横の、私が玄関先にならべていた、草刈り機の部品の方へ、ゆっくり顔を近づけた。
今にして思えば、匂いを確かめようとしたのではないか、と思う。
猫は目が悪く、人なども匂いで区別するという。
私は、その時、ネジなどに悪戯されては面倒だと考えて、咄嗟に、あっと言って、立ち上がった。すると、猫は、びくっと驚いて、私を一瞬見つめ、そして、すばやく逃げて行った。
それから、数年が過ぎた今。
私は毎日、玄関先に、煮干しを置いてみたりして、猫たちと、仲良くなろうと試みている。
しかし、一向に、距離が縮まる気配はない。
庭で猫をみかけたら、私の母親なら、間違いなく、高い声で、呼びかけていたはずだ。
時には、何か餌も与えていただろう。
あの日、水道の前で、しゃがんでいた私を、その麦猫は、母親と勘違いしたのではないか。
『何か御馳走してくれるというなら吝(やぶさ)かでは無いですよ。何時ものように頂きますよ。おや?、へんだな。はて、同じ人間だろうか。匂いはどうだろう、くんくん。わっ、立ち上がった。しまった、吾輩としたことが。人違いだ、逃げろ!』
漱石には、「文鳥」という小品もある。
出入りする門下生(漱石の場合、門下生といっても、先生と弟子というより、もっとフランク。そこが良い)から勧められて、文鳥を飼うことになる。
しかし不注意から、死なせてしまう。
最後の場面で、漱石は家人(お手伝いとして雇っている少女)に、お前がちゃんと、餌をやらないからいけないのだ、と責め立てる。
今だと、パワハラという言葉なども思い浮かぶような場面。
どうして、わざわざそんなオチにしたのだろう。
今、私は、庭にやってくる雀を眺めながら、時々、その結末を思い出したりしている。
漱石は、エゴイズムに苦悩する近代知識人を描いた、といわれたりする。
考えてみれば、近頃、エゴイズムだとか、利己主義という言葉を持ち出すこと自体、めっきり少なくなったように思う。
『エゴイズムって言ってもさ。他人にすごい迷惑をかけては駄目だろうけど、自分の利益を図ろうとすることが、そもそも何か、いけないことなの?』
私の長女からも、そんな、素朴な質問が、聞こえてきそうだ。
ぼんやり事務所の庭を眺めていたら、馴染みの三毛猫の姿が見えた。
デスクに座った位置から、右手の方向。
レースのカーテンを少し開けて、外の玄関先の角が見えるようにしている。
そこには、昔、両親が庭仕事に使っていた、シャベルや束子(たわし)などを置いておくための、小さな台がある。最近、そこに猫用のペットフードを、ひとつまみだけ置いている。
どうやら、三毛猫が、食べに来たようだ。
周囲や後ろを気にしながら、慎重に、台に顔をつっこんでいる。
食べ終わると、私の正面方向の、庭の中央へ向かって歩き出した。
そしてゆっくり、皿の水を飲み始めた。
朝、きれいにした水を、そんなふうに飲んでくれる姿を見ると、なんとなく嬉しくなる。
自分の一仕事が、役に立ったことが実感できるからかもしれない。
最近、猫たちが、水仙の陰に隠れて、雀を狙っているふしがある。
私の半端な餌やりが、かえって野鳥の危険を増やしてしいるのかもしれない。
動物の様子を眺めたいという自分の楽しみのための、私の、気まぐれ。
そうして、間違いなく、自然の調和を、どこか乱している。
それこそ、エゴイズムという言葉も思い浮かぶ。
一方で、新鮮な水を出してあげることに関しては、まんざら悪いことでもないようにも思う。
これからまた、暑い夏も来る。
私は、庭の水道から、水を汲んであげただけ。
でも、小さな動物たちにとっては、時に、それは、ありがたい恵みとなる。
水を飲む三毛猫を眺めながら、そんなことを、暫く考えていた。
2026年5月某日
