どうやら大事(だいじ)には至らずに済みそうだが、こんな事件があった。
早朝、三時過ぎ、リビングの固定電話が鳴った。
普段、私は、隣の、畳の部屋で寝ている。
直ぐに目が覚めた。
出るつもりはなかった。
詐欺電話だろうと考えたからだ。
まもなく留守電のメッセージに切り替わった。
「あっ」と声がして、すぐ切れた。
しかし、直ちにまた、電話が鳴る。
そんなことが、数回繰り返された。
最近、迷惑電話が多い。
無視することに慣れてはきている。
しかし、こんな異様なパターンは初めてだった。
時差のある海外から、機械で、かけてきているのではないか。
それも、何か設定がおかしくなって、繰り返すのではないか。
或いは、嫌がらせの類(たぐい)だろうか。
もう、電話線を抜いてしまおうか。
そんなことを考えていると、今度は、枕もとの携帯電話が、ブルブルと反応した。
画面を見ると、二男からの電話を示す表示。
ライン通話。
もう出るしかない、と考えた。
スマホの画面をタップした。
いったい、どんな手口の詐欺だろう、などと考えつつ。
唐突に、若い男性が、話し始めた。明らかに、二男の声ではない。
こんなことを言った。頭の中を、様々な考えがかけめぐった。
自分は、〇〇消防署の〇〇という者だ。(ああ、如何にも詐欺っぽい。)
息子さんの〇〇さんから、救急に電話が入った。(まさか、火事?)
足と、手に力が入らない、ということだった。そこで〇〇病院へ、搬送した。(えっ?)
お父さん、今から、〇〇病院まで来れますか。(えっ?)
二男が一人暮らしをしながら、働き始めたその街は、高速道路を使っても、一時間以上かかる離れた土地である。
時間も考えれば、かなり異様な展開だ。
その男性と、それ以上に、会話を重ねることも、危険なように思えた。
病院に来られるか、という質問に対して「分かりました」とだけ返した。
そして、一つだけ、息子はどんな状況なのか、と質問した。
すると、男性は、医師の診察を受けているところである、ということを言った。
そして、二男の声を聞くこともなく、電話を終えた。
私は、やはり詐欺の可能性を考えた。
なにしろ、今、世の中は、毎日毎日、個人情報の流出のニュースであふれている。
一人暮らしの二男が、脳溢血のような状況になったとして、深夜、自分で目覚め、救急車を呼んだ、というのも、如何にも不自然なように思えた。
しかし、告げられた病院は、県立の大きな総合病院のはず。
とにかく行ってみよう。
仮に、変な男たちが待ち構えていたとしても、取り合わず、救急の外来へ、まっすぐ入ってしまえば、嘘か本当か、はっきりするだろう。
そう、心を決めた。
それでも、不安と迷いが募った。
のろのろ準備していると、長女が、部屋から出てきた。
なり続いた電話の音に、怯えていたらしい。
なにより、私が電話に出て、話し始めたことが、怖かったようだ。
二男のところへ行ってくる、と話すと、長女は、半べそで叫んだ。
『それ、絶対、詐欺だよ!』
大きな県立病院へ行くのだから、大丈夫という見込みを話すと、長女は、冷蔵庫の中から麦茶を出して、私のマグカップに注ぎ、レンジで1分、温めてくれた。
ある種の危機の中、長女なりに、頭を回転させてくれている。
ふと、成長を感じた。
ほのかに温かいお茶を飲み干し、バナナを一本食べ、家を出た。
雨交じりの寒い朝。
外は、まだ、真っ暗。
車に乗り込んでから、思い出した。
天気予報で、明け方、いよいよ雪が混じるかもしれない、と騒いでいたことを。
冬タイヤへの交換は、まだだった。
濡れて、黒く光る路面を凝視しながら、運転を続けた。
高速道路に入ってからも、スピードを上げる気持ちにはならなかった。
そもそも、高速道路も、80キロ規制になってる。
慎重に運転を続けながらも、様々な考えが頭をよぎった。
詐欺でないなら、それは、二男が、脳溢血の類を発症した、ということになる。
昔の同僚や部下にも、そんな状況になる人は、何人かいた。
リハビリを経て、ちゃんと仕事に復帰した人達も多い。
結局、程度の問題だろう。
二男には、お付き合いしている彼女がいる。
はっきり聞いたのは、つい昨年のことだ。
しかし、高校時代からの、長い付き合いらしい。
まだ、会わせてもらっていない。
急がせるつもりはなかったのだが、こんなことなら、早く会っておけばよかった。
リハビリで、彼女と、協力しながら、二男の世話をする事態も想定される。
もし、深刻な障害が残るような場合・・・
その未来は、もう彼女の人生に、背負わせることはできないだろう・・・
そんなことまで考えていた時に、ぼんやり見えていた、ヘッドライトの向こうの、闇に浮かぶ高速道路の風景。
きっと、この先、忘れることは出来ないだろう。
湧き上がる不安を、深夜ラジオで紛らしながら、先に進んだ。
こんなことも、頭に浮んでいた。
つい、数日前に、太宰治の「桜桃」を読んだ。
ごく短い文章である。
ジャンル上、小説なのだろうが、自殺直前の太宰の家庭の様子が、ほぼ、そのまま描かれている。
障害をもって生まれた長男に、心底、心を痛めていることが良く分かる。
お乳とお乳のあいだに、涙の谷・・・、と冗談を口にしつつ、必死で、小さな子供たちの世話を続ける奥さんのそばで、太宰は、自殺を考えている。
そして、それから間もなく、愛人と自殺してしまう。
この短編にちなんで、6月19日の命日には「桜桃忌」という名前が付けられている。
私は、今、こうして深夜、運転し、二男の下へ向かっている。
この後、どんな事態が待っていようとも、二男のために、その先の行動、現実の活動を続けることになる。母親兼、お父さんとして。
太宰も、そんな『現実活動』をする立場だったら、きっと、自殺している暇なんて、なかっただろうに・・・
深夜の、総合病院の、閑散とした、大きな駐車場に、たどりつく。
救急外来の入り口を探す。
どうやら、変な男達の姿などは、見当たらない。
「救急隊員」どころか、そもそも、人の気配がまるでしない。
開かないだろうな、と考えながら、恐る恐る正面の入り口の方に近づくと、それでも自動ドアが、静かに開いた。
(【その2】へ続く。)
2026年10月某日
