№108 パンくずリストと論語(和辻哲郎著『孔子』)

ちちプロ

「パンくずリスト」という言葉がある。

例えば、企業や行政の、大きなウェブサイトを、いったりきたり暫く閲覧していると、画面の上の方に、「ホーム>カテゴリ>詳細ページ・・・」といった表示が出てくることがある。

つまりは、これが「パンくずリスト」なのだ。

自分が今、そのサイト上で、どんな階層を閲覧しているのか、少し前のページに戻るにはどこへ飛べば良いか、そんなことが視覚的に分かるようになっている。

グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」に、森で迷子にならないようにと、パンくずを道に落として目印にしたというくだりがある。

それが、由来になっている言葉なのだ。

このところ、夜、寝る前、文庫本で「論語」を読んでいた。
途中で、一冊、岩波文庫を並行して読んだ。

哲学者の和辻 哲郎(わつじ てつろう)が書いた、「孔子」という、薄い本である。
この文庫本も、大学生の時に買ったものだ。

当時から、孔子や、論語について、知っておきたいという気持ちがあった。
和辻 哲郎という、日本の哲学者にも興味があった。

その、150頁ほどの文庫本なら、目を通すのに、手頃なように思えたのだ。
しかし、例のごとく、買っただけで満足して、結局手を付けずに終わった。

30数年を経て、先日、書棚で見つけ、読み始めた。
開いてみれば、興味を引く読みやすい文章で、すぐに読み終えた。

序分の中で、和辻自身が、こんな事を書いている。

「自分が志したのは、いまだ孔子に触れたことのない人に『論語』を熟読玩味してみようという気持ちを起こさせることであった。」

最も多く、ページを割いて語られているのは、もちろん孔子について。
論語の各篇が成立した、古さの順番などを、推理小説のように考察している。

一方、孔子に話しを持って行く前段として、釈迦、ソクラテス、キリストとを対比する説明にも、相当の紙幅を割いている。

冒頭は、こんな文章で始る。

『釈迦、孔子、ソクラテス、イエスの四人をあげて世界の四聖と呼ぶことは、だいぶ前から行なわれている。たぶん明治時代の我が国の学者が言い出したことであろうと思うが、その考証はここでは必要でない。

とにかくこの四聖という考えには、西洋にのみ偏(かたよ)らずに世界の文化を広く見渡すという態度が含まれている。

インド文化を釈迦で、シナ文化を孔子で、ギリシア文化をソクラテスで、またヨーロッパを征服したユダヤ文化をイエスで代表させ、そうしてこれらに等しく高い価値を認めようというのである。

ではどうしてこれらの人物が、それぞれの大きい文化潮流を代表し得るのであろうか。

どの文化潮流も非常に豊富な内容を持っているのであって、一人の人物が代表し得るような単純なものではないはずである。しかも人がこれらの人物をそれぞれの文化潮流の代表者として選び、そうしてまた他の人々がそれを適切として感ずるのは、何によるのであろうか。

自分はそれを、これらの人物が「人類の教師」であったという点に見いだし得ると思う。』

日本の哲学者であり、倫理学者でもあった和辻は、大正から昭和にかけて仕事をした人である。

若い頃には、夏目漱石の自宅(いわゆる漱石山房)へも出入りしていた、という時代の人。
戦後まで働き、1960年(昭和35年)に71歳で亡くなっている。

ところで。
私のところの、長男と二男は、この数年の間に、就職し独立した。

以前はよく、私自身のちょっとした気付きを、子供達の参考になればと、折に触れ、軽い調子で話すようにしていた。
今は、そんな時間も無くなってしまった。

最近、私自身が、改めて感じ、子供たちにも伝えたいと思うのは、こんな理屈だ。

『もし、読書する時間が取れるのなら、古典から、優先して読んだ方がよい。
なぜなら、人生は、驚くほど有限なのだから。』

「古典」といっても抽象的かもしれないが、要は、長い時間を経て評価が確立している書物のことだ。

日々、新たな本が出版されている。
誰かが、感想などを話していると、気になってくる。

しかし、数年過ぎて振り返ると分かるのだ。
それらの流行(はやり)の書物の寿命が、いかに短かったかが。

歴史の評価をくぐり抜けてきた、良書を、優先して読んだ方がよい。
時間(即ち自分の命)を無駄使いしないために。

そういう意味では、『論語』は、別格だろう。
驚くほど長い間、多くの人々に読まれてきた書物なのだから。

或いは、お爺さんが好んで読む本、とイメージするかもしれない。

ある意味、それも当然だろう。
人生経験を経て、はじめて沁みてくる言葉も多いからだ。

若い人が「四十にして迷わず」と言われても、ピンとこなくて当然だろう。

ただし、この言葉を使うおじさん達だって、
「『不惑』とは言うものの、オレは未だに迷ってばかりだな」という感じで、自虐的に使ったりするだけなのだ。高尚でも何でも無い、切実な悲哀。

そう考えれば、人生の道筋を、まるで「パンくずリスト」のように示してくれているのが、『論語』なのかもしれない。

多くの「古典」が、信頼できる人生の「パンくずリスト」たりえるから、つまりは「古典」から優先して読んだ方が良い、というのが、子供達へ伝えたいメッセージ、というわけだ。

私のこうした、ささやかな気付き。

改めて、文章にするのも、教養の程度が知れるようで、少し気恥ずかしい。

ただし、もうタイムリミットだろうとも考えている。
良くも悪くも、ここが、自分の到達点。

そう観念して、こうして書き始めた。

それは、子供達に辿り着いてもらう手掛かりを残すためだ。
そうして、その先へと進んで欲しいと願うからだ。

こんな雑文も、そんな「パンくず」の一つになればよい、と思っている。

2026年8月某日

 

アーカイブ
ちちプロ
スポンサーリンク