№90 無線機(こっちのけんと『はいよろこんで』)

ちえプロ

平日の朝。
約束した時間に、二男が家にやってきた。

ばたばたと、長女も、出かける準備の仕上げをした。

三人で、私の車に乗り込んだ。
まずは、数キロ先の、長男のアパートへ。

長男を拾い、四人で、M市へ向けて出発した。
午後に予定されている、義父の通夜に、出るためだった。

数日前の、大雪の影響で、道路の状況は、まだ悪かった。
遅れることがないように、早めに出発しようと、子供達と約束していたのだ。

雪道は続いたものの、順調に、M市まで辿り着いた。

少し早かったが、昼ご飯を食べてしまうことにした。
魚市場などもある、埠頭の上に、近年、建設された「海の駅」へ向かった。

広い駐車場に、車を停めた。
一階に、お土産物売り場や、産直などがあり、二階に、飲食施設があった。

四人で、食事をするのも久しぶりのことだった。
海が見える、窓辺の席を確保した。

外海から隔てられた湾内は、普段は、波も穏やかである。
細かな波が、冬の日差しを、キラキラと反射していた。

ゆっくり食事をしたが、まだ、早かった。

時間調整する必要があった。
昔よく、みんなで行った、海岸へ行ってみることにした。

遠くの波打ち際を、ゆっくり歩く、老人が一人。
他に、人影はなかった。

長男と二男は、よさげな石を見つけて、水切りを始めた。
綺麗な小石が続く海岸である。

長女は、貝殻などを探して、ぶらぶらしている。
干からびたヒトデを見つけ、大きな声で、みんなにアピールしたりしている。

こんなふうに、時々、家族で、海辺までやってきた。
兄妹で過ごす、そんな静かな時間を、特に長女がよろこんだ。

通夜の時間には、まだ、早かった。

どうしようかな。
水平線の向こうを眺めながら、ぼんやりと、考えていた。

二男が、近付いてきて、この辺りに博物館は、無かっただろうか、と聞いてきた。

二男は、今年度、就職した。
しかし、実は、まだ大学を卒業出来ていない。

卒業に必要な、単位を取り損ねたのだ。
職場とも相談のうえ、10月からの下期、金曜日の午前中に休みを取り、大学に通っていた。

冬休みの課題が出ているという。
個人的に博物館へ行って、地質学に関する知見を学び、レポートを提出するという宿題。
レポートそのものというより、施設に足を運び(ちゃんと学んで)、証拠として自分が写った写真を添付する、というのがミソらしい。

市営の、小さな施設を、思い出した。

科学館という名称。しかし、水産業に関する展示物など、雑多な物が展示された、つまりは、地域の博物館のような施設、だったはず。

地元の海の、身近な魚が泳ぐ、水槽などもあった。
子供が小さかった頃、連れて行くには、手頃な場所だった。

義父や義母、亡くなった妻ともよく行った。
実は、義父が、小さな孫達に、見せたい展示物もあったのだ。

それは、昭和の時代に、実際に使われて、役目を終えた、大型冷蔵庫ほどの、大きな、無線の機械、なのである。

義父は、高校を卒業した後、地元の漁協に就職し、無線技士として、定年まで働いた。
本当は、進学したかったらしいが、父親が早くに亡くなり、長男だった義父と、母親が働いて、下の弟、妹の生活を支えたのだ。

港町であるから、多くの人達が、沖で漁業をし、暮らしている。
漁船が、安全に操業できるように、無線で情報を伝えるのが、つまりは義父の仕事だったと思う。

義父が現役の頃、実際に使っていたその機械。
無線電話や、衛星通信の登場で役割を終え、科学館に寄贈されることになったのだ。

義父は、その機械を、孫達に見せたかったのである。

暫くぶりに行ってみると、その薄緑色の、四角い機械は、変わらず、同じ場所に展示されていた。

昔、義父がそうしたように、扉を開けて、中の計器類が見えるようにした。
そして、子供達に声をかけて、写真を撮った。
三人の子供と、機械がちょうど並ぶようなアングルで。

暫く前、こっちのけんとの「はいよろこんで」という曲がはやった。
中に、トントントン、ツーツーツー、トントントンという歌詞が出てくる。

モールス信号の「SOS」のこと、である。
トンは「・」、ツーは「ー」で表記される。

3から6マスという歌詞も出てくるが、こちらは、モールス信号とは関係がない。
心電図の波形が、方眼紙に記される際に、正常値なら、その範囲のマス目におさまるらしい。

つまりは、悲鳴を上げている現代人に、数値が正常なうちに(体を壊す前に)、SOSを出した方が良い、と呼びかけるような歌詞なのである。

数年前、長男と二男が、じいちゃんから、モールス信号を教わった、と嬉しそうにしていたことがあった。思えば、それがSOSだ。

モールス信号は電鍵(でんけん)と呼ばれる道具のハンドルを「トン」と短く叩く打ち方(短点)と、「ツー」と延ばす打ち方(長点)の組み合わせで、アルファベットなどを表現する。

トントントンと短く三回が「S」、ツーツーツーとのばして三回が「O」。
そんな具合に、すべてのアルファベットに、モールス符号が割り振られている。

「トントントン、ツーツーツー、トントントン」という打ち方が、覚えやすく分かりやすい、という理由で、遭難信号として設定されることになった。

アルファベットとして見れば、結果的に、それがSOSだったということである。
つまり、SOSの言葉自体には、意味は無い、のである。

Save Our Souls(助けて)の略だと言われたりすることもあるが、これは後付けなのだという。

昔、義父との会話の中で、英語を出来る様子もない義父が、どうしていたのだろう、と不思議に思ったことがあった。

実は、ちゃんと和文というのもあるのだ。
イロハニホヘトの順で、イは「トン、ツー」、ロは「トン、ツー、トン、ツー」という具合に、すべての平仮名に、やはり符合が割り振られている。

義父は、この和文を使って、例えば沖の船へ、天気の急変を知らせたりしていたのだ。

「トントントン」と表記すると、いかにものどかにも見えるが、実際にはとても早い。

トトトツツツ・・・と、凄いスピードで、信号を打つ。
聞く方も、熟達した人は、そのまま頭の中で、文字に変換して理解するのだという。

今は、YouTubeで、打電(打鍵)の様子も、見ることが出来る。

義父は、こんなスピードで、モールス信号を打ち、同時に、相手の信号を頭の中で変換して、理解していたんだな、と驚かされる。

そうして義父は、日々、漁業者の安全を守る仕事をしていたのだ。

通夜の、1時間ほど前に、セレモニーホールに入った。
義兄や、Tさんに、挨拶をし、子供達三人を紹介した。

まずは皆で、棺の中の、義父のところへ行き、一人一人、お水取りをした。
水でしめらせた、綿棒で、くちびるをトントントン。

遺影は、どうしたのだろう。
Tさんに聞いて見ると、義父の家に入ったら、居間で写真を見つけた。何年前のものか、まるで分からない。しかし、丁度良さそうだったので、それにした、という。

結局、私が提供したスマホの写真は、使わなかったようだ。

遺影を見ると、見慣れないシャツを来ていたが、穏やかなよい表情だった。
私の知らない、楽しい日常が、他にもあったらしいことに、むしろ少しほっとした。

通夜の時間が近づき、私と、子供達も、それぞれ、指定された椅子に腰掛けた。
静かに、和尚さんの到着を待った。

昔、子供達と遊んでくれた、気さくなKさんが、立ったまま、後から入ってくる人達の対応などをしていた。Kさんが、子供達に話しかける声が聞こえてきた。

義父の遺影の写真。
実は、首から下のシャツの部分は、既存の写真と合成したものなのだ。今は、そんなことも出来るのだなと、Kさん自身も、少し驚いた、というようなことを話している。

そして、身軽に、奥から、木製のフレームに入った写真を持ってきて、元になったのは、この写真である。一緒に写っている赤ちゃんが誰なのかは、誰も知らないんだけどね、と説明している。

そろそろ、和尚さんが、着いてもおかしくない時間になっていた。
立ち歩く訳にもいかず、私は、だまってそのまま座っていた。

Kさんと子供達の様子とを、横目で見ていた。

その写真には、中央に義父、向かって左に義母、右に長女のK子さんが写っていた。
義父の膝の上に、小さな男の赤ちゃんが、落ち着いた表情で座っている。

天気の良い日に、どこか、外で腰掛けて撮ったらしい。
義父も含め、みな落ち着いた、静かな、良い笑顔。

手触りの良さそうな、その茶色と、緑の木のフレーム。
見覚えがあった。段々、記憶が蘇った。

それは、写真を入れた状態で、妻が、義父と義母に、プレゼントしたものなのだ。
そうすると、赤ちゃんは、生まれて数か月の長男、ということになる。

そこに写る、三人兄妹の真ん中の、長女のK子さん。
小さい頃から、癲癇(てんかん)の持病に苦労した人だった。

その写真の一年ほど後に、自宅の風呂場で、事故死したのだ。

K子さんが亡くなった直後、赤ん坊の長男と、4人で写った思い出の写真を、写真立てに入れて、義父と義母のために、妻がプレゼントしたのである。

「いい写真でしょ。ほら、ここに置くからね。」

義父や義母に話しかけながら、妻がその写真立ての置き場所を、自分で決めてしまったとき、私も、炬燵で、その様子を見ていたのだ。

その後の、その木製のフレーム。

坂の上のあの家の、居間の、あの棚の、ガラスの引き戸の中。
あの日、妻が決めた、あの場所に、そのまま飾ってあったのか。

20年以上も、そのままで。
そこに写る赤ん坊が誰なのか、もはや会話に上ることもないままに。

まもなく読経が始った。
手を合わせながら。

記憶に結びつく情景と、流れた時間の想像とが、頭の中で、ぐるぐると回り続けた。

それから、暫くして、今。
こうして、あの通夜の一日のことを思い出して、文章にしている。

その後、思いついて、漁業無線の動画なども見た。
義父の仕事のことを、少しだけだが深く、分かってあげられた。
と、思う。

今は、こんなふうに考えている。

赤ん坊の長男を囲んだあの写真。
みんな、穏やかなよい顔つきだった。

きっと、写真を撮った、妻にしてもそうだったろう。

間違いなく、幸せな時間が、そこにあった。
それで、良いではないか。

幸せで、満ち足りた時間だけが連続する人生などは、あり得ない。
川のように、思い通りにいかないことや、悲しいことが、後から後から、流れてくる日常。

多くの人達にとって、幸せな時間や、楽しいひとときは、そんな流れの中に、所々、ほんの僅かに顔をのぞかせる、飛び石のようなものだろう。

あの写真を撮ったあの時間、あの空間。
義父達にとっては、確かに幸せな、そんな飛び石の一つだったと思う。

なにより、そういう時間をくれた、赤ん坊の長男に、心から感謝したい。
そして、今度は、長男も含め、子供達自身が、そんな飛び石を、先へ先へとつないでほしい。

ところで。
子供達と、無線の機械が、並んで写った写真。
その後、数年ぶりに写真屋へ行き、プリントにしてみた。

その時レジで、思いつきでサイズの合う木製のフレームも買った。
今は、マンションの居間の棚に、飾ってある。

思えば、もう一人のメンバーのように、子供達と並んで、無骨な四角い機械が写った、奇妙な写真である。こうして、その経緯(いきさつ)を、文章にすることになって良かったと思う。

いつか記憶もぼやけた頃、みんなでする昔話の、きっかけ位にはなるだろう。
そして、時には、思い出して欲しい。

久しぶりに、家族で、海を眺めたあの一日。
それは、じいちゃんがくれた、大事な時間だったのだ、ということを。

2026年2月某日

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