仕事を終え、家に戻る。
直前に帰っていた二男と、リビングで鉢合わせになった。
モコモコとした、黒いダウンジャケットを着たままの二男。
神妙な顔つき。
帰ってきたばかりのところ、申し訳ないんだけど、と話し出す。
何だ、何だ、今度は何があった。
重大なことか?
いや、いや、案外どうでも良いことかも。
両方のベクトルが、私の頭の中で交錯する。
要領を心得ている二男は、悪い話しほど、間髪を入れずに、先を進める。
大学の単位を一つ落としてしまった。
ゼミの先生から、大丈夫か、とメールがあり、確認したところ、卒業できないことが分かった。
ある必修の領域で、取れるつもりでいた科目の最後のテストが悪かった。
点数が届かなかった。
事務の人のアドバイスもあり、その科目の教授のところへお願いにも行ってきた。
何か、救済措置はないものか。就職先も決まっている。この科目、一つだけなのだ。なんとかお願いできませんか、と。
しかし、頑なな先生で、絶対にダメ。
かつて自分のゼミ生ですら、ルールを崩さず落第させたのだ、と取り付く島も無かった。
あと数点だけだったのだ。悪いのは自分であり、先生に何も非は無いが、正直言ってムカついた。
レポートを出させて補うといった方法は、良くあること。その先生次第でどうにでもなる話しなのに、とも話す二男。
その悔しい気持ち、よく分かる。
いや、いや、しかし。
瞬時に、色々な思いが頭を駆け巡る。
これこそ、社会の厳しさだ。
勉強にせよ、アルバイトにせよ、自分なりの合理性、効率性を追い求め、最小限の近道で結果に辿り着こうとする二男。
その考え方自体は、良いと思う。
しかし、就職活動までも順調にいき、少し調子に乗っていたのではないか。
保険をかけて、もう少し科目を履修しておくことだってできたはず。厳しい先生にあたり、こんなことが起こりがちなことは、噂としてよく耳にしていたのではないか。
二男にとっては、世の中の厳しさが身に染みる、良い教訓になるだろう。
いや、いや、いや。そんな呑気なことを考えている場合ではない。
どうするのか、どうしたいのか。
まずは、そこ。
二男が、もし、就職を一旦白紙に戻して、ちゃんと大学を卒業したい。留年させて欲しい。
そんな気持ちだったら、私はどうするのか。どう、出来るのか。
経済的な計算が狂う。きつい。
退職を取りやめて、もう一年、このまま働くことにしようか。
直接、人事当局に頼み込めば、もしかしたら、まだどうにかなるかもしれない。
いや、いや、いや。むり、むり、むり。
組織全体の人事内示こそ、まだ先ではあるものの、既に、内々に上司から慰労を受けるセレモニーまで終わっているのだ。
とにかく、二男の気持ちをきくしかない。
そうだ、まずは、そこ。
聞こう。
「それで、お前は、どうしたいんだ。」
二男はこう答えた。
就職先へ、明日、電話して相談するつもりである。先方から了解が得られれば、そのまま働きたいと思っている。中退でも採用してもらえるのか、給料などの条件はどうなるのか、不安ではあるが・・・
そうか。
そうなのか。そんな気持ちなのか。
それなら、それで・・・それが良い。
私が就職した当時は、大学卒業が、正式採用の条件になっていた。
しかし、今は変わっている。一般的に「大学卒業程度」という表現になっているはず。
実際、私の部下の経歴で、何人か同じような状況の人を見かけたことがある。
先日、二男の元に届いた、採用通知が、その答えだと思う。
先方としては、辞退されて、これから欠員が生じる方が困るだろう。
と、そんな見通しを二男に説明した。
私に対し、本当に申し訳なく思っている。
二男は、そんな事も話した。苦しい気持ちでいることも、伝わってきた。
子供たちの将来が少しでも楽になるように、これまで私が、どれだけ心を砕いてきたか、十分に了解してくれているからだ、とも思う。
ふわふわとした気持ちのまま、とりあえず夕飯を作り、二男と長女と三人で食べる。
長男は、用事で不在だった。
皿を洗い、風呂に入り、寝る。
大学だけは、是非とも、卒業させてやりたかったんだけどな・・・
夜中、不意に目が覚める。
布団の中で、真っ先に考えはじめる。
地元の大学である。事務局側の、知り合いの顔も何人か頭に浮かぶ。
良い方法がないか、相談してみよう。
無理なごり押しをするつもりはない。
しかし、私自身に後悔が残らないように、やれることはやってみよう。
そこまで考えて、時計を見ると、午前3時32分。
ゾロ目までは、もう一息。
気持ちは分かるが、あまり期待しないこと。
どこからか届いた、そんなメッセージかも。と、ふと思う。
夏目漱石の、例の、こんな文章が頭に浮かんだ。
状況は少し違う。しかし、リズムが妙にしっくりとくる。
もう一度、寝るための体制に入りながら、心のなかで小さくつぶやく。
智に働けば角が立つ。
情に棹(さお)させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は・・・ままならない。
2025年2月某日