№45 アンコンシャスバイアスの歯車(芥川龍之介『歯車』に想う)

ちちプロ

ある朝、職場で。
こんな様子が目にとまった。

若手の男性職員が、打ち合わせテーブルの上の、その日の各社の新聞を畳んで整理している。
続けて、前日の新聞を、それぞれのホルダーへと綴り直す作業。

そうか、A子さんが病気休暇で、しばらく休んでいるからだ。

A子さんは有期雇用というような立場で働いている人。
正規雇用職員のお手伝い的な仕事をしてもらっている女性である。

女性がやっていると、特に意識にもとまらないそんな職場内での雑務。
ワイシャツ姿の男性職員が、たまにやっていると違和感がある。
少しだけ、痛々しいような気分にもなる。

最近、「アンコンシャスバイアス」という言葉を耳にするようになった。

日本語に訳せば、それは「無意識の思い込み」。

男女共同参画の文脈から使われるようになった言葉らしい。

例えば。
家事に育児。家を守るのは女の仕事。外で働くのが男の仕事。
職場の新聞の片付けなどの雑用。
それは女性がやるべきだ。

そんな、知らず知らずの決めつけ。
それが、アンコンシャスバイアスなのだ。

私の職場では、部署毎に、A子さんのような、お手伝い的な仕事をする女性が、必ず数名配置されている。
長年、見慣れた光景である。

給料は限られるが、残業してでも捌かなければならないような、責任の重い仕事が、彼女達に割り振られることはない。

近年、職を求めて、この仕事に就く男性の姿が目に付くようになった。

以前、私がいた職場でも、大学を卒業後、目指す就職試験に落ち、翌年に向けて勉強しながら、つなぎとして働いている、という若い男の子がいたことがあった。

色々と事情はあるのだろう。
しかし、各階にある給湯室などで、お茶の道具の片付けなどをしているワイシャツ姿の男性を見かけると、見慣れないせいもあり、未だについつい気になってしまう。

合理的な我が家の二男あたりに、もし、この話しをすれば、仕事の負担も勘案して本人が選択していることなのだから、他人が気をもむ話しでは無い、といったことを言うに違いない。

確かにそれは、それこそ私の中のアンコンシャスバイアスから来るものかもしれない。
一定の年齢の男性の場合、その収入で家族を養えるのだろうか、などといった心配までしているのだから。

自分の中に、思い込みの歯車がまずは起点として一つあって、その歯車が、次の思い込みの歯車を回し、ぐるりと戻ってきたうえでの、余計な感情。
もしかしたら、当人に対しては失礼な話しかもしれない。

ただし、そこには、もう一つ別の事情もあるのだ。

数年前、長男が大学四年生の時。
就職先がなかなか決まらず、苦労した。

自分なりに、精一杯活動し、努力しているのなら何も言うことは無い。
本人も、内心、苦しかったとは思う。
しかし、本気さや、必死さが感じられず、見ているしか無い私としては、日々、陰鬱な気分が募ったのである。
それは、私のメンタルを痛める要素の一つにもなった。

その当時。
職場の給湯室などで、ポットを運んだりしている非正規雇用の若い男性を見かける、そのたびに。
このまま就職先が決まらず、もし長男がその立場を選んだとしたら。
いかにも在りそうなその展開。
その想像に、毎度、どうしようもなく心が沈んでしまったのだ。

その長男。
数日前の夜、こんなことを言っていた。

長男の職場では、毎年恒例の、沢山の来客が訪れる仕事を、まもなく皆でこなすことになる。
長男も、昨年、一度、経験済み。
周りの職員にとっても、必ずしも、精通している仕事ではない。
だから、先輩職員たちも、内心不安で、負担にも感じている。

しかし、長男は、余り気にしていない、と言ったのだ。
昨年も、例えば、来客からの質問に、必ずしも十分に答えられなかったりもしたが、別にいいや、と気にしない。平気である、と。

この話しを聞いて、私がどう思ったか。

自分の部下だったら、そんな不真面目ではいけない、つねに勉強し、準備する姿勢が必要だと、小言の一つも言ったかもしれない。

しかし、家族の立場としては。
それで良い、と頼もしくすら感じたのである。

二年前。就職試験に落ち続けていた、その当時。
ある時、長男が、急にこんなことを言い始めたことがあった。

お父さんは信じてくれないだろうが、実は、昔から勉強を始めようとすると、いつも急に偏頭痛になる特殊な病気を抱えている。それでしっかり準備が出来ず、就職試験に、落ち続けているのだ。

おいおい、何を今更、言い訳しているのか。
それならもっと早く、病院で治療しなければならないような話しだろう。

亡くなった妻は、昔、そんな長男のことを、よく「口先番長」と表現していた。

思えば、おととしの丁度、今頃。
年末ぎりぎりのこのタイミング。
補欠合格からの繰り上げで、ようやく長男の就職先が決まったのだ。
心底、ほっとしたことを覚えている。

その後の長男。今。
職場のルールに合わせ、自分なりに役割を果たそうと努力している様子。

もし仕事上、上手くいかないことがあったとして、それを自分個人の責任と、重く受け止めすぎるのは良くないことだ。
思い詰めすぎから来る、取り返しの付かない悲劇。実際、身近に見てもきた。

自分の仕事。停滞させることなく、少しずつでも、前に進めているならそれで良い。
元気が出るなら「口先番長」で十分だ。

芥川龍之介の「歯車」という短編。
自殺で終わる、その35年の短い生涯の、最晩年の作品である。
精神に変調をきたし、歯車の幻覚を見ながら、街を彷徨う主人公の「僕」。

長年、精神を病むのは、芸術家や感受性が強い人、或いはとても頭の良い人。
インテリの人がなりやすい病気。
何となくそんな思い込みを持っていた。

今にして思えば、芥川龍之介から来るイメージが強かったからかもしれない。
これもアンコンシャスバイアスの一種だったかも、と思った次第。

今にして、つくづくと思う。
心の変調。それは、ごく普通に誰にでも起こることなのだ。

例えば、残業が続き、睡眠が削られたりした時。
仕事は終わるのだろうか、責任を果たせるのだろうかと不安が続いたりもする。
ようやく忙しいところを抜け、睡眠に充てる時間が取れるようになった後も、眠りが浅かったり、短い時間で目が覚めて、その後寝付けなくなったり。

段々、じっとしていられず、好きだったはずの音楽を聴くことすら苦痛にもなったり。
そんなことが高じると、誰しも簡単に、心のリズムは崩れていくのだ。

時間はあるのに、しっかり寝られないようなら、危険である。
過信せず、まずは自分で気をつけて、兆候があったら、心を解放するような休み方をするように努めるべきなのだ。

組織の中で成果を出し、上司に認められ、出世していくためには、あらゆる事に気を配る、精一杯の「気働き」が大事にもなってくる。
しかし、長男に、そういうことを言い聞かせ、促すというつもりはない。

心のバランスを保ち、元気に仕事に行き、暮らしを続いて行けるようなら、それで何よりだから。

その朝の、私の職場。

少し迷って、やっぱり。
新聞を片付けている、その若手職員に声をかけることにした。
それとなく横を通り過ぎながら、今、気が付いた、という雰囲気で。

「そうか、A子さんが休んでいるから、代打なんだね。ご苦労さん。」

もともと、気の良い青年である。
中堅の職員からの指示で、彼がやるはめになったはずのその雑務。
なんで自分が、といった不満の素振りは少しも見せない。

それでも。
声をかけたら。

「はは。そうなんですよ」と、嬉しそうな明るい笑顔が返ってきた。

もしかしたら、本人も意識していないような、小さな小さな心のトゲ。
こっそり抜いてあげられたようだ。

アンコンシャスバイアスは、ひとまず置いておくとして、それは、きっと意味のあるやり取りだったと思う。

息子よ、こんな「気働き」ならば参考に。

2024年12月某日