№47 千と千尋とサンショウウオ(井伏鱒二『山椒魚』)

ちちプロ

ネットで調べ物をしていた時のこと。
こんな質問箱のやり取りに目が留まった。

「千と千尋の神隠し」をまた見た。4回目である。しかし、まったく意味が分からない。
オクサレ様は、帰るとき、どうして「よきかな」と言ったの?
カオナシって何者?
最後にこちらの世界に戻った時、なぜ車に葉っぱが積もっていたの?
そもそも、何を伝えたいアニメ映画なの?

ちゃんと回答を書き込んでいる人がいて、一生懸命、説明しようともしている。

不思議に思った。
どうしてクイズのように答えを求めたくなるのだろう。
手品のように、不思議であっても必ずタネがある、という類いのものでもないのに。

作者自身、必ずしも、はっきり整理出来ない何らかの想いを、映像なり、絵画なり、文章なりで表現しているのが、つまりはクリエイティブな作品ということなのではないか。

何度も見たくなるくらい、心に引っかかったのなら、良さを感じているということ。
それで十分なのではないか。

と、その時はつい、そんな、説教じみたことを考えてしまった。

このところ、県内の市町村の役場を、一つ一つ回り、私のチームが取り組もうとしていることを説明しつつ、意見交換を行う、ということをやっている。

この時期、恒例の仕事となっている。
数名で、一台のワンボックスカーで移動しながら。何日かかけて。

そんなある日の出先。
部下と、その土地で評判の良いラーメン屋で昼食をとった後、次の約束を考えると、30分ほど時間が空いてしまった。
一旦、それぞれ自由行動の休憩時間とした。

そのエリアは、飲食店やスーパーなどが一体的に整備されはじめている。
ようやく津波の傷が癒えてきたところ。

スーパーと連結するような作りで、新たに市立の図書館が建設されていた。
今回、はじめて中に入ってみた。
新しくて気持ちがよい。

文学全集の一角を見つける。
もしかしたら、短編くらいは、この時間で読めるかも。
最近、気になっていた作品を探す。

それは、井伏鱒二の「山椒魚」。

数日前に、何かの拍子で目に留まった文庫本の、太宰治の文章。
中に、こんな記述があったのだ。
世の中に見いだされていなかった井伏鱒二の、その作品の良さに、当時、中学生だった自分は、いち早く気付いていた・・・

それから、もう一つ。数年前のことだがこんなこともあった。
場所は、よく思い出せないが、どこかの施設の屋外で、オオサンショウウオを飼育しているところを、偶然、見学した。

川の流れを模した環境をつくり、自然に近い形を再現してあった。
箱状の人工の巣穴で飼育している。
上から観察できるように一部ガラスのような構造にしてあったと思う。

新鮮な川の水が、入り口の穴から循環するような仕組み。
ただし、入り口の穴は、成長したオオサンショウウオの頭の大きさより、小さく作っているので、そこから出入りはできない。
井伏鱒二の「山椒魚」の世界観を踏まえたもの。
そんな解説文もあったと思う。

そうして眺める、オオサンショウウオは、愛嬌もあって、印象に残った。

その図書館。
文学全集の一冊。井伏鱒二の巻は、直ぐに見つかった。
手に取れば、一番始めの作品が「山椒魚」になっている。本人が必ずその順番を望んだらしい。

良さげな椅子に腰掛けて、早速、目を通す。
ゆっくり読む時間はないが、頁数は少なそう。

だが、読み進めても、思ったほどには、引きつけられる感じがおこらない。
良さの程度が、推し量れないという感覚。

後日、気になってネットで、評価や解説を調べ始めた。

ついこないだ、「千と千尋の神隠し」の意味が分からないというネットの書き込みに、ケチをつけるようなことを考えた自分なのに。ひとり、苦笑い。
周りの評価が高いのに、自分の理解が今ひとつ追いついていない感覚は、確かに少し座りが悪い。

調べれば、色々とエピソードが出てくる。
晩年、自身で選んだ作品による全集に収める際に、肝心の結末部分を大胆にカットするという変更を加えたらしい。
それは、賛否両論の大騒ぎとなった。

作品の後半に登場する蛙。
ある時、山椒魚の巣穴に紛れ込んでしまう。
心がすさんでしまった山椒魚に邪魔をされ、外に出られなくなってしまう。
中の、安全地帯のくぼみに逃げ込む。
手出しが出来なくなった山椒魚と、さりとてそこから逃げることができない蛙。
互いに罵り合いを続け、数年過ぎるという展開。

空腹で衰弱した蛙が、最後に「今でも別に、おまえのことを怒ってはいないんだ」と山椒魚に語りかけるという、結末。

私がその図書館で読んだ「山椒魚」はそうなっていた。きっと古い全集だったのだ。

晩年、この、和解のシーンをそっくり削除してしまったらしい。
山椒魚と蛙が膠着状態のまま、話しが終わってしまう形へと。

もはや作者の手を離れた作品になっているはず。
作品を愛する人達からの、そんな反発も相当にあったようだ。

井伏鱒二自身、どちらが良かったか、気になり続けたようでもある。

大作家が、しかもその晩年に、作品の結末そのものに、そんなふうに迷うとは。

それにしても、考えてみれば人間も「山椒魚」のように、何と多くのことに囚われて、日々、身動きできないでいることか。

例えば「時間」がそうだ。
タイムマシーンを空想し、時間を行き来できる未来を描く映画も多い。

しかし、実際には、決して乗り越えられない四次元の壁。

小さな出入り口から、外を眺め、三次元の広い空間で動き回る自分を想像している「山椒魚」と、はたしてどれ程に違いがあるのだろうか。

こうして、色々な方向に、ついつい考えが膨らんで行くのも、きっと作品の力なのだろう。

千と千尋。
ネットを覗くと、こちらも随分と、多くの人に疑問があり、そして回答の書き込みがある。

結局何が言いたいの?

それに対するネット上の答えの一つ。

劇中で、釜爺(かまじい)も言っているではないか。
「わからんか、あいだ、愛」

菅原文太さんの、あの渋い声がはっきり聞こえてくるようで、ちょっと良い回答だ。

元の世界に戻って来た時に、車に葉っぱが積もっていたのは、きっと時間の流れが違うから。
宮崎駿監督は、インタビューで、ただの夢だった、というような話しにしたくなかったための描写であるとも説明している。

「カオナシ」については、どうか。

いつも職場で、昼食後、数十分だけだが、自分のデスクに突っ伏して昼寝をする。

ある日、突っ伏してから、ついつい「カオナシ」のことを考え始めてしまった。

宮崎監督は、インタビューで「カオナシ」とは何かという質問に対し「自分を持たない、あんな人は、周りにいっぱいいるじゃないですか」というような返し方をしている。

特定の誰か、ではなく、我々誰しもが持っている、人間の本質を代表したような存在。

はじめは「あ」「あ」などとしか言えない「カオナシ」。
人や蛙を飲み込んで、そのキャラクターの声で、言葉を話すようになる。
本当は土くれの、偽物の砂金をばらまき、店の、食べ物や酒をどんどんもってこさせる。

しかし、食べても飲んでも渇きはとまらない。
折角、多くのものを手に入れたのに、もっともっとと欲しくなる。

もはや、何が欲しいのかも分からない。
いや、本当に欲しいのは「千」の愛情なのだ。
蛙のキャラクターのひしゃげた声で、絞り出す言葉は、ほしい、千がほしい・・・

大暴走のうえ、千に「にがだんご」を口にほうりこまれる。
いや、オクサレ様からもらって、折角、大事にとっていた「にがだんご」を、千が、食べさせてあげるのだ。
おかげで、飲み込んだあらゆるものを、全て吐き出して、ようやく静かになる。

千とともに、美しい景色の中、しかし不安な電車の旅を経て、銭婆(ぜにーば)のところへとたどり着く。
そして、静かな労働の環境に落ち着く。

なるほど、誰かではなく、我々みんなの中に、多かれ少なかれ、きっと「カオナシ」がいるのだ。

結局、その日の昼寝は出来ずじまい。
しかし、知的な散歩、面白かった。

私も一言、こんな言葉を言いたい気分。
雰囲気、雰囲気。
きっと、そんなもの。

「よき、よき。善哉(よきかな)」

2024年12月某日