このとことろ、県内の市町村を巡る、という仕事を断続的に行っている。
その日も朝早く、外に出た。
どんよりとした曇り空。
職場のワンボックスカーの、後部座席の窓から、流れ去る風景に目をやる。
この時期恒例となっている、市町村役場を訪問して、意見交換をするという仕事。
どうしても、移動時間が長くなる。
車窓から、風景を眺めながら、ふとブログの文章の構造について、考えはじめた。
子供の頃、夏休みの宿題で書いた、読書感想文が思い出された。
似ているようでもあり、そうでないようでもあり。
良い読書感想文は、あからさまには、あらすじを書かないものだと昔、教えられた。
作品を紹介するブログの記事なども、安易なネタバレとならないよう、遠回しに伝えるスタイルが良いはず。そんなことを、つらつらと考えていた。
私の母親は、学校の先生だった。
小学校に入学し、夏休みの宿題で、私が読書感想文を書くようになった頃。
母は、良く、こんなふうにうそぶいた。
コンクールに入賞させてあげることなど簡単だ。いくつかコツを押さえればよい。
文章を書くということ自体、むしろ苦手にしていた母親。
そのアドバイスは、少々、生臭いものだった。
まず、感想を書く本の選び方。
メジャーな小説などでは競争が激しい。例えば、自然科学の本などがよい。
タイトルは、カギ括弧が付くようなコメント風にすること。
地の文も、○○したよ、○○しちゃった、と子供らしい話し言葉で進めるとより効果的。
その法則に、素直に従わされて、書いた小学2年生の夏休みの読書感想文は、休み明け、何と県で2番目の良い賞をとった。
花や昆虫などをテーマにした、薄い科学の本のシリーズがある。その一冊から選んだ。
タイトルは、「ぼく、○○の花が好きになっちゃった」
本文も、いちいち「ぼく、○○したんだ」的な文末になっていたはず。
今、思い出しても恥ずかしい。
母親に言われるまま、それは自分の感覚と、随分かけ離れた文章にしあがった。
ただし、前後の話をよく覚えているのは、もう一つ別の思い出とつながっているからなのだ。
私が二番目の賞だったが、一番目も、同じ小学校の、しかも同学年の女の子がとった。
すらりと背の高い、優しげな、黒目の大きな女の子。
県庁所在地の、遠く離れた小都市で行われる表彰式に、私とその女の子が出席することになった。
校長先生はじめ、ちょっとした大騒ぎ。
私の担任の、若い女の先生が、引率することになった。
私は一人。その女の子は、同居しているらしいおばあちゃんと二人での出席。
鮮明な記憶は、セレモニーの前に、時間調整で寄った、会場近くの大きなデパートでのこと。
喜ばしいことだから、記念に何か買っていいよと、先生がおもちゃのある階に我々を連れて行ってくれた。
その頃、私は合体して、ロボットになるプラモデルを集めていた。
確か、五つくらいの小型のロボットが合体するような仕組み。
そのデパートのおもちゃ売り場には、探していた、そのうち二つが揃っていた。
私は、どうしても二つとも欲しくなった。地元では、なかなか見つからなかったから。
しかし、学校では普通に授業も行われている平日である。
ちょっと記念に何か買うというには、大きすぎるプラモデルの箱。しかも、二つ。
お小遣いは、十分に母親から持たせてもらっていた。
せっかくだから二つとも買おうかな。
言い訳がましく、先生にも同意を求める。
先生も、う、うん、という微妙な返事。
結局二つとも買って、私は、その後、大きな袋をさげて式にも出た。
女の子は、どうしていたか。
何やらおばあちゃんと、二人こそこそと話し、可愛いガマ口のお財布の中を眺めている。
迷って、何か小さなものを一つだけ買った様子。
裏技を駆使した私の上を行った、その女の子の感想文。
確か、その子だけ、会場で朗読したのだと記憶している。内容は心に残るものだった。
彼女は母子家庭だった。
お母さんは、縫い物の仕事で、なんとか家計を支えていた。
夜、ついつい眠くなる。
眠気を紛らすため、自分の太ももを、針でつついて目を覚ますということを、よくしていた。
ある時、針が折れて、血管を辿り、心臓まで達し、亡くなってしまった。
今は、おばあちゃんと二人、暮らしている。
それは、素朴な文章だった。
後日、引率していた担任の先生が、私の母親に、デパートで数百円の小さなものを買おうかどうか迷っている、家計にゆとりがないであろう彼女と、でかい箱を二つも買い占めている私の様子とを見比べて心が痛んだということを話したらしい。
私は、母親から諭されて、ようやく状況を理解した。
読書感想文と言えば、もう一つ、思い出がある。
私が浪人生活を終え、東京の私大に潜り込み、新しい生活を始めた当時。
春先、太宰治の「津軽」を読んでいた。
「津軽」は、太宰治が故郷の青森県、津軽地方を旅し、それを元に書いた紀行文風の小説。
読み終えた瞬間を、今も鮮明に覚えている。
私の大学は、当時、都心から大分離れた土地に、新たなキャンパスを整備したところだった。
一部の学部だけ、そちらへ移り、そこに体育館も新設されていた。
私の学部は、大学1年の間だけ、その新しい施設を使って体育の授業を行った。
単位を取るため、私も、何時間もかけて、週に1日、足を運んだ。
自然の中の、広大な敷地。
最寄りの駅から、敷地の中に入ってからも、体育館まで、結構な道のりを歩くことになる。
樹木と、芝生の緑が美しかった。
田舎から出て行った私には、気持ちの良い景色だった。
ある、天気の良い日。授業開始まで、若干時間もあった。
体育館に辿り着くまでの道の途中。なだらかな高台のベンチ。
私は、腰掛けて「津軽」の文庫本を取り出した。
もう、残り数頁となっていて、読み終えてしまいたかったのだ。
太宰治の旅の最大の目的である、昔、子守をしてくれた母親代わりの「たけ」に再会するシーン。
「たけ」の無骨な愛情に触れ、心が元気になった様子の作者。
結びはこうである。
以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。
気取って去って行く、太宰治の姿がありありと目に浮かぶようだった。
私は思わず空を見上げた。そして、周りの緑の木々を見渡した。
そんなこと言ったって、太宰さん。あなたの人生の結末。女の人に引きずられるように心中する羽目になるその結末。今や、誰でも知っているんですよ・・・
どこかで叫びたくなった。
その気持ちを、何かに書きたくなった。
いったい、「生きる」って何なのだ、と。
その夏のこと。
当時、高校生だった妹の夏休みの宿題。代筆してあげよう、と申し出た。
「津軽」の読書感想文。
それは、あれよあれよと、賞を取ってしまった。
考えてみれば、女子高生が「人生ってなんだ」と書けばギャップもあって、目を引く。
私の、とぼけた長女を引き合いに想像してみると明らかだ。
もし、夏休みあけ、彼女が、いきなりそんな宿題を提出してきたら、担任の先生も「なんだ、なんだ、何があった」と、きっと心配するに違いない。
おまけに。
他の町で高校に通っていた従兄弟と、その夏休み、暫くぶりに会った私と妹。
悪乗りして、従兄弟も、同じ感想文を宿題として使い回せばよい、ということになったのだ。
ありがたいことに国語の先生が誉めてくれて、そちらも賞へ出そうと騒ぎになった。
流石に諦めて、従兄弟は、ほどなく自首をした。
今回の出張。
一日の行程を終えた帰りの車中。高速道路の上。
すっかり暗くなった。遠くの街明かりがゆっくり流れていく。
今日も、沢山の人と、意見交換した。
珍しく、ついカッとなってしまった場面があった。
相手方の中の、だいぶ若い係長さんが、いかにも無責任に感じるコメントをしたからだ。
大義のようなことが、仮に、こちらにあったとして。
それでも意見交換の中で、反論されて、怒ってしまうのはそもそも論外だ。
あと少し、この舞台を降りるまでは、投げ出さず、この役割を演じ続けねば。
そう、自分に言い聞かせる。
その時、昔、プラモデルを二つ買い占めて、先生に正当化の言い訳をしている時の自分の気持ちが、なぜか、急にありありと蘇ってきた。
浅はかに、自分の理屈を押し通そうとする、その感じ。
腹を立ててしまったことを、正当化しようと考えている今の自分と、なんだかそっくり。
情けないくらい、本質的には、同じ自分。
一方で、それは不思議な感覚でもあった。
この間、50年程の歳月が流れた私の時間。私の人生。
それは確かに、連続したものなのだ。
そんな、奇妙な納得感もあったのである。
2025年1月某日