№96 夜しかな桜(ヨルシカ『春泥棒』)

ちえプロ

月曜の朝。
少し風が強いものの、日差しには、春の明るさがあった。

事務所で、仕事を始める準備をしていると、ラジオから曲が流れてきた。
ヨルシカの「春泥棒」という曲だった。

落ち着くメロディーだ。
断片的に聞こえる、歌詞の雰囲気もよい。

意味をよく聴き取ろうと、デスクから立ち上がり、スピーカーへ近付いた。
春風に揺れる、庭の水仙の花が、目に入った。

数日前、本屋で、新書を一冊、ついつい全部、立ち読みしてしまった。
中に、宮沢賢治の「春と修羅」を引き合いに、この詩には、人の命の在り方が表現されている、というような一節があった。

「春と修羅」の文庫本が、家のどこかにあったはず。
後で探してみよう、と考えて、そのままだった。
ラジオに近づきながら、そんなことを思い出していた。

「春」という単語と、「修羅」という言葉の組み合わせも、考えてみればすごい。
そんなことも、頭に浮んでいた。

立ったまま、ヨルシカの曲を聴き終えた。
直ぐにラジオを消し、ノートパソコンでMV(ミュージックビデオ)を検索してみた。

柔らかいタッチの、アニメだった。
死んだ妻の目線から、桜と、ベンチで文庫本を読む、横の夫を眺めるというストーリー。

私にとっては、ちょっとたまらない展開だ。
数日前、けちって立ち読みを続ける私の姿を、もしかしたら、妻もどこかで、見ていたのかもしれないな。

もっとも妻なら、こんなふうに突っ込みを入れながらだろうけど。
「ちょっと、もうー。そんならもう、買ったら?」

休日だった昨日、朝から、長女と二人、車で少し、遠出をした。

私の用事もあったのだが、桜が満開になっている方面へ向かうということもあり、これが我が家の、今年の花見ということにしようと、二人で話したりしながらの、ドライブになった。

とても風が強かった。だが、よく晴れた一日だった。
山桜や、川の土手沿いの桜。満開の花を、行く先々で眺めることができた。

帰り道。
長女は、後ろの席で、うとうとしていた。
ラジオから、女性アナウンサーのこんな話しが聞こえてきた。

以前、余命宣告を受けていた、高齢の母親を看護していたときのこと。
年明け、母親が「今年の桜は、見ることができないだろうね」と弱音を吐いた。
「大丈夫、大丈夫。私がお弁当を作るから、一緒にお花見にいきましょうよ」と、つい明るく声をかけてしまった。
母親は、桜を見ることなく、まもなく二月に亡くなった。

どうして、その時、通り一遍の言葉で軽くかわしてしまったのか。
どうして、もっと親身に、寄り添ってあげられなかったのか。
どうしようもなく悔やまれた。
その年の桜は、辛くて、まともに見ることができなかった。

運転しながら、本当に人さまざま。色々なことがある、ということを考えた。
相手の苦しみなど理解せず「大丈夫、大丈夫」と、気楽に慰めてしまうことも、実際、良くある。

一方で、他人の心の奥底の苦しみが、そのまま自分に流れ込んでくるとしたら、それは恐ろしいこと、でもある。人は、互いに、鈍感の中で、自己の領域を保っている。

私にも一つ、どうにも苦しい、妻との、桜の思い出がある。

妻は、二月末に亡くなった。
だから、その記憶は、二月に入ってからのこと、だと思う。

夕方、いつものように妻の病室を訪ねると、昼、遠くから義兄がお見舞いに来た、という。
ゼリーを持ってきてくれた。冷蔵庫に入っている。自分は、もう食べられないから、持って帰って子供と食べてほしい。

箱から出して、ばらして冷やしてあったゼリーを、言われるまま、私は、カバンへ移した。
透明なカップ。本物の塩付けの桜の花が、ピンク色のゼリーに、浮んでいた。

私はつい、元気付けるような調子で、ゼリーを妻に見せながら、こんな言葉をかけた。
「ほら、桜の花。ああ、ちゃんと今年も、桜の花を、見れたじゃない。」

冗談好きの、明るい妻だった。
しかし、その時、妻は、私の言葉を、注意深く考え込むふうで、ただ黙って聞いていた。

なんて馬鹿なことを、言ってしまったのだろう。
その後、何度も何度も、一人、思い返してきた。

妻の主治医は、私の高校時代の同級生の、Sだった。
病状や、手術前後の説明などは、Sから、必ず私と妻と、二人揃って聞いていた。

妻の闘病生活は、私と妻との、共同作業でもあった。
隠し事もなかった。全部、共有していた。
その時までは。

しかし。その数日前。
Sは、はじめて私一人だけを部屋に呼び出した。

そして、苦しそうに、こう言った。
「もう、どう考えても、今年の桜は、見られない。」

病室で、桜のゼリーを見たとき。

私は、Sの言葉を思い出し、空元気で、そんな言葉を選んでしまったのだ。
桜が見られないなんて、そんなことがあるものか。ほら、現に今、見れてるじゃないか!

しかし、それは、妻にとっては、残酷な言葉でもあったのだ。
看護師だった妻だから、きっと裏の意味に、直ぐに気付いたはずなのだ。

『そう。医者がその言葉を使ったのね。もう桜の時期までもたないって。』

桜の花は、良くも悪くも、人の心の調子を、少し狂わすもの、なのかもしれない。

ヨルシカの「春泥棒」。

桜の花を、人の命に見立てて書いた歌詞だという。
花が寿命なら、風は時間。
春泥棒とは、つまりは、春風のこと、らしい。

事務所の、窓の外に見える庭。

昨日ほどではないが、今日も、風が強い。
黄色と白の、水仙の花が、時々、激しく揺れている。

昨日は、行く先々で、ふいに強く風が吹いた。
ただ、不思議と、満開の桜を散らすような、意地悪をすることは、なかった。

『今日というこの日。娘と一緒の、貴重な一日だよ。忘れないで覚えていてね。』
もしかしたら、妻が、大きな声で、そう叫んでくれていたのかもしれない。

そんなことを想像しながら、暫く、風に吹かれる、庭の水仙を眺めていた。

2026年4月某日

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