№76 大相撲(『氷山の一角』に想う)

のりプロ

休日の午後。
車で、裏道をたどり、買い物など、いくつか、用を足していた。
車載テレビで、「大相撲中継」を見ながら。

助手席の後ろの、いつもの席に、長女も乗っていた。

ふと、相撲にまつわる記憶がよみがえった。
私の祖父、長女にとっての曾(ひい)おじいちゃんとの思い出。
長女に、話したくなった。

今、私は、毎場所、相撲中継を楽しみにしている。時間が許すなら、幕下から見たいほど。

しかし、小さい時、特に小学校の低学年の頃あたりは、寧ろ嫌いだった。
仕切りを繰り返す、あの、まったりとした時間に、毎度、じりじりする思いだった。

母親の実父である、私の祖父は、百キロほど離れたまちにすんでいた。
秋祭りの頃など、よく私達の家まで、列車で、泊まりにやって来た。

私や、同じまちに住んでいた従兄弟も、祖父のことが、大好きだった。
泊まりに来てくれること自体は、とても楽しみにしていた。

祖父は、やはり大相撲が大好きで、必ずNHKのテレビ中継を見たがった。

しかし、小学生だった私は、その時間は、本当はアニメが見たかったのだ。
祖父が泊まって、毎週見ていたアニメの続きが見れなくなることだけが、どうにも悔しかった。

運転しながら、そんな思い出を、長女に話した。

すると、長女は、自分も、おじいちゃん(私の父親)と、やはり同じように相撲中継を見ていた、と話し出した。

おじいちゃんは、ビールを飲みながら、相撲中継を見ていた。自分は、麦茶を用意してもらって、一緒に見ていたのだ、という。

孫の麦茶の入ったグラスと乾杯して、ご満悦の、おじいちゃんの姿が、目に浮んだ。

長女は、おじいちゃんからも、おばあちゃんからも、可愛がられていた。

それにしても、夕方の、その時間帯。
どうして、長女は、一緒に、毎度、相撲中継を見ていたのか。保育園の時間にかぶるはずなのに。

疑問に思って、聞いてみると、長女は、こんな答えだった。
頻繁に休んでいたからだ、というのだ。

長女も、段々、記憶がよみがえってきた様子。
そういえば、おばあちゃんに一回だけ、ひどく怒られたことがある、という。
「だから、保育園に行けばよかったでしょう」と。

孫を、感情的に怒る姿など、見たことはない。
何があったか訊ねると、こんな説明だった。

自分が、お母さんに会いたい、と大泣きしたからなのだ、という。

長女が、保育園の年中さんの終わりの頃、母親、即ち私の妻は、亡くなった。

保育園の最後の一年、私の両親の家から、保育園に向かう朝、おばあちゃんは、かなり頻繁に、保育園を休んで良い、ということにしたようなのだ。

妻が亡くなった直後の数年、二人の小学生と、保育園児の、三人の子どもを抱えていた私は、数キロ郊外の、両親の家に、頻繁に、泊まらせてもらっていた。

泊まった翌朝、私は、まず一人で、朝早く、バスで職場へ向かった。
その後、おじいちゃんが、車で、三人の孫を、それぞれ送ってくれたのだ。

長男と二男のことを、安易に休ませることはなかったようだ。
しかし、長女については、朝、長女の気持ちを確認しつつも、寧ろ、保育園を休むように、おばあちゃんが促していたようなのだ。

おじいちゃんは、長女のためには、むしろ、気が紛れるように、保育園へ行った方がよい、という意見だった。安易に、休ませたがる、おばあちゃんと、度々口論になったようだ。

私も、当時、おじいちゃんから、そんな話しを聞いた記憶がある。

そんなおばあちゃんが、なぜ、お気に入りの5歳の孫を、その時、本気で怒ったのか。

長女の思い出話を聞いたとき、私には、直ぐに、おばあちゃんの気持ちが分かった。

今、長女は、どんな記憶として、その話しを、持ち出したのだろう。
おばあちゃんの気持ちを、どこまで理解できているのだろう。

おばあちゃんは、当時、母親を亡くしたばかりに長女に、最大限、目をかけてあげたかったのだ。

朝、保育園に行くのを少しでもしぶるようなら、直ぐに、休んで良いことにして、おじいちゃんと二人で、面倒をみる一日にしたてあげたかったのだ、と思う。

長女の様子に気を配り、遊びに促したり、おやつを食べさせたりしてあげるために。
愛情を求めて、淋しそうな様子が見えようものなら、ただちに埋めてあげるために。

そんなある時、それでも、何かのきっかで、母親を思い出し、長女は、泣き出したのだ。
そして、おばあちゃんに無理難題を、言い始めた。
大人がどうにも辛い、難題を。

近くには、やっぱり困って、おばあちゃんの方を責めたくなっている、おじいちゃんの憎らしい顔も見えたはず。

暫くは、どうにかこうにか、なだめていたはずだ。
それでも聞かない長女を前に、おばあちゃんも頭に血が昇り、途中を飛ばしたような理屈を、小さな孫に、怒鳴ってしまったのだ。

「だから、保育園に行ったほうがよかったでしょう。(その方が、気が紛れたんだよ!)」

おばあちゃんにも、辛い思いをさせてしまったようだ。

もっと、お礼を言えればよかった。

「氷山の一角」、という言葉がある、

海に浮いている氷山が見えたとして、その下には、何倍も大きな氷の塊が隠れている。
見えない部分に、本質があるという例え話。

海の上に見える氷が、長女が、おばあちゃんに怒られた思い出だったとして、海中に隠れている大きな塊は、そこに至るまでの、膨大なおばあちゃんの、長女への気遣い。

きっと、そんな比率だったと思う。

当時、おばあちゃん、そしておじいちゃんが、長女に、どれだけ多くの愛情を注いでいたか。

「おばあちゃんから、昔、なんか、ひどく怒られたんだよね。保育園休んでばっかりだから、悲しくなるんだって。」

もし、あまりにも単純な形で、長女の記憶に残っているとしたら、おばあちゃんもちょっと、浮かばれまい。

運転しながら、長女の思い出話を聞いた後。
そんなふうに、思った。

しかし、考えてみれば、世の、おばあちゃん達なら、みんな、こんなふうに言うのかもしれない。
それ位で、丁度良いのかもしれない。

「いいの、いいの。今、皆が元気に、楽しくやってるなら、それで十分。」

2025年7月某日

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