№69 モッコザラ(『木瓜の花』に想う)

のりプロ

このところ、事務所の開設に向けて、作業を進めている。

先日、私の住むエリアを管轄している支部へ、申請書類を出した。
ようやく、ここまで漕ぎ着けた。

次は、この仕事の事務所として、一応の条件をクリアしているか、調査員がやってくる段取りになっている。相手方と、日取りも決めてある。

事務所とはいっても、施設に移った私の両親が残した、郊外の一軒家である。
不要な日用品も、あちらこちら、まだ残ったままになっている。

目に付く範囲だけでも、ネジを巻いて掃除しなければ。
庭の雑草も伸びている。
もう一度、草刈りもしたい。

部屋で、一人、片付けを進めていると、以前、雑多な物を、おっつけていた出窓の一角から、鉛筆などの文房具に交じって、二枚の紙が出てきた。

書道で使う半紙だろう。高級な紙質。
二枚重ねて半分に折りたたんである。
楷書で書かれた、端正な文字がならんでいる。
写経か何かだろうか?

ざっと目を通すと、それは、父親へあてた「手紙」だった。
わざわざ筆で書いてある。しかし、古いわけではない。

令和2年(2020年)1月とある。
その日付の頃。

母親の認知症と、父親の病気が進み、二人の、この家での生活が急激に荒れはじめていたタイミングである。
封筒も見当たらず、居間の、文房具の中に紛れていたのも、きっと、そのせいだろう。
父親は、読んだ後、書斎にしまうことをせず、近くに置いたままにしたのだ。

それは、沿岸部のK市で、一人暮らしをしていた、叔父から、父親へあてた手紙だった。
叔父の奥さんは、私の、母親の実の姉。

つまり、父親と叔父には、血のつながりは無かった。
しかし、不思議な友情で、強く、結ばれていた。

二人とも、酒好きだった。
家族で、お互いの家を、よく行ったり来たりしていた。

夜、叔母と母親が永遠とおしゃべりをし、私と従兄弟達が、無限に子どもの遊びを続ける中、飲んだ後、必ず二人は、何度も囲碁をしていた。

手紙は、年賀の挨拶に始まっていた。

続けて、私の母親の認知症の具合はどうか。前年の11月に、叔母を、ついに近くの施設へ移した。二日に一度のペースで会いに行っている、と綴られている。

会話のないことは淋しい。しかし、日々、こんなふうに過ごしている、ともある。

四時になったら、晩酌をはじめストレス解消。
火気点検、戸締まり。七時、床に入りテレビ。八時に就寝。

四時から晩酌か・・・。ちょっと、良いかも。

日本酒に囲碁、そしてなにより庭木の世話を、愛した人だった。

施設に移った叔母は、その手紙の年の年末、令和2年(2020年)12月に亡くなった。
叔父は、その2年後、令和4年(2022年)5月に亡くなった。
最後まで、庭の手入れと、晩酌を欠かさず、一人暮らしのまま、向こうへ逝った。

新聞が、乱雑にたまる玄関先を、不審に思った近所の人の通報で、数日後、発見されたのである。

事務所の片付け。
だんだん少し、飽きてきた。

掃除の手を止め、家の中から、庭のバラの周りの雑草の伸び具合を眺めていると、手前の小さなボケの木に、赤い花が一つ咲きかけていることに気が付いた。

この数日、ネットで、ボケのことを調べていた。
剪定のコツを知りたかったからである。

花言葉は、「先駆者」や「早熟」などらしい。
それは、早春、他の花より、一足先に咲き始めるからだ。

我が家でもそうだった。
この春も、早々に複数の花が咲き、そして散ってしまった。

6月となった今、奔放な角度へ枝が伸びている。
そろそろ剪定して、整えないと。
と、少し、気が重くなっていたところだったのだ。

それが何故かまた、一輪だけ、可愛い花芽を付けている。
そして、今、まさに開こうとしている。

そのボケは、3年前、叔父が亡くなった後に、形見分けとして、もらってきたものだった。

K市での葬儀を終え、帰ろうとする私を、従兄弟が、呼び止めた。
沢山ある盆栽の中から、どれでもよいから幾つか持って行ってくれないか、と。

その家で育った従兄弟は、今は、関東で働き、暮らしている。

叔父が、大事に育ててきた数十鉢もの盆栽。
もはや、毎日の水やりは不可能。
どれでも好きなものを、車に乗せて、持って行ってほしい。

私が、自分の家に戻るまで、二時間近いドライブとなる距離があった。
車の中で、植木鉢が転がって、土がぶちまけられる映像が、頭に浮かんだ。

私は、根元に「ボケ(白)」と手書きの札が刺してある、安定感のありそうな、小さな鉢植えを一つだけ選んだ。

すると、従兄弟は、後は枯らしてしまうだけ。もう一つくらい持って行かないか。これあたりはどうだ、と指さした。「ボケ(赤)」と、札がある鉢を。

奔放な方向に、枝が伸びている鉢だった。
いかにも車の中で、倒れてしまいそうな不安定さに思えた。

しかし、従兄弟の気持ちを思えば、断るのは忍びなかった。
白と赤、二つの鉢を、私は黙って、車に積み込んだ。

そして、自宅のある街へ戻り、その足で、郊外の、既に両親が施設へ移った後の、この家の庭先に、二つとも、直植え(じかうえ)したのだ。

その後、肥料などもやってはみたのだが「白」の方は、とうとう根付くことなく枯れてしまった。

これで「赤」の方まで、枯らしてしまったら申し訳がない。
気をもんでいると、冬を越え、4月早々、ぷくりとした蕾を、幾つも付けたのである。

今回、ネットの動画で調べて、ようやく腑に落ちた。
花が咲き終えた後、あちこちへ新たな枝を伸ばすのが、毎年の正常な姿なのだ。
3年前の5月、枝振りが落ち着いていた「白」の方は、きっと既に力を無くしていたのだ。

木瓜(ボケ)のことを調べているうち、木瓜皿(もっこうざら)という表現にも行き着いた。

可愛いリズムで、「もっこ皿」と言ったりもするらしい。
画像を見れば、よく見かけてきた、馴染みのあるデザインである。

木瓜紋(もっこうもん)という家紋も、見れば多くの人が、嗚呼あのデザインか、となると思う。

木瓜紋の由来は、瓜(うり)を輪切りにした形、という説が有力のようだ。
ボケにしても、瓜のような実のなる木だから「木瓜」と表記されるようになったらしい。
つまり全て「瓜」を起点にした、説明になっている。

しかし、むしろ「ボケの花」の印象こそ、根本にあるもののように思えてならない。

木瓜紋のデザインも、もっこ皿の妙に可愛い形も、(瓜を経由せず)ボケの花の魅力から、直結、生み出されたものなのではないか。

きっとボケの花は、日本人に、しみじみ愛されてきた花なのだ。

叔父は、教員を退職した後、日々、書道も熱心にやっていたようだ。
さすがに、手紙を筆で書くことは、多くは無かったと思う。

しかし、あの時、どうして毛筆の手紙を出したくなったのか。

その手紙は、父親と母親が、この家を去る、ほんの数か月前にたどり着いた。
そして、鉛筆に紛れた中から、こうして私が見つけて、読む事になったのだ。
思えば、不思議な縁である。

この際、私も、次の文章を、子孫に宛てた、「手紙」のつもりで書いておく。

叔父から託された赤いボケ。
昨年、適当に、伸びた枝を剪定してみた。
その時、切った枝に後ろめたさも感じ、幾つか、庭の片隅に、挿し木した。
ダメでもともと。その後はほったらかし。

この春、そのうちのひと枝が、どうやら根付いたようなのだ。
挿し木で増えていくという、この感覚。
なんだか面白い。また、やってみようと思っている。

今まで、この家に、ボケはなかった。
この先、事務所の庭先に、毎春、沢山の赤い花が咲くようになっていたとして。

それは、K市のおじちゃんが、欠かさず水遣りした、あの一鉢から、全部が、増えたものなのだ。

2025年6月某日

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