№73 たらちね(斎藤茂吉『赤光』)

のりプロ

午後、事務所で作業していると、スマホが反応しているのに気が付いた。
電話が入っている。
母親のいる施設の番号が表示されている。

出ると、こんな内容だった。
午後になって、呼吸の状態が悪くなった。
持ち直すかもしれず、何とも言えないが、こっちに来てもらった方がよい。

電話を切った後、他にも、仕事の電話を、一本、取り損ねていたことに気が付いた。
少し迷って、折り返す。
数週間先のスケジュールの連絡だった。了解して電話を切ったものの、落ち着かない。
その頃、自分はいったい、どうなっているのだろう。

三人の子供へ、一気にメールする。
施設から電話があったので、駆けつける。後でまた、連絡する、と。

次いで妹にも、短くメール。
ニュアンスを説明したほうがよいだろうと、妹の職場へ電話もしたが、つかまらない。
同僚らしい人に、伝言をお願いする。
もう、ここまでにしよう。早く、施設へ向かうべきだ。

ざわざわとした気持ちで、車を出す。

昨日の昼も、施設を訪ねたばかり、だった。
まだまだ、元気そうに見えた。

私が勝手に決めたペース。
土曜日と、水曜日、施設を訪ね、短時間だけだが、母親の部屋まで入れてもらっていた。
様子を確認し、一声かけられれば、それで十分だと考えていた。

コロナ禍の名残もあって、本来は、そんな気ままな訪問は、認められてはいなかった。
事前に予約して、専用の個室で、15分だけ面会するのがルールだった。

しかし、母親の状況が悪くなってからは、施設側も、私の望みを黙認してくれた。母親の個室の中まで、入れてくれるようになった。

土曜日は、学校が休みの長女を連れて、二人で面会に行った。
長男と、二男も、土曜日にそれぞれ時間を調整して、会わせることが出来た。
水曜日は、一人で行っていた。

そんなサイクルとなったのは、時々顔を出すうちに、水曜日の午前中が、お風呂の時間だと分かったから、だった。

母親は、基本的に、いつも同じように寝ているだけ。
しかし、水曜日の昼前に訪問すると、ちょうど風呂上がりの母親は、いつもさっぱりとして、穏やかな雰囲気だったのだ。

昨日もそうだった。
お風呂の後、訪問看護の、看護師さんが、点滴の準備をしているところだった。
お腹が少し、見えていた。張りがあって、色つやもよかった。

車を運転しながら、考えた。
昨日の様子を思えば、今日は、一旦、持ち直すのではないだろうか。

同時に、こんな考えも、頭に浮かんでいた。ほとんど並列で。

多くの事例を見ている施設の人たちの感覚は、結局、正しいことが多い。
父親の時もそうだった。連絡を受けて駆けつけたら、やはり、その夜、父親は亡くなった。
今夜も、或いは、長くなるのかもしれないな。

スマホの表示が目に入った。
妹から、状況を聞きたい、と入っているようだ。
施設からの電話も入っている様子。
しかし、もう電話に出るゆとりは無い。まもなく到着だ。

電話を受けてから、1時間かからず、施設へ着いた。
玄関に入ると、いつもの検温は不要。さあさあ早く。と、施設長さんの目の合図。
言葉はない。

母親の部屋へ入る。
いつものように、静かに横になっている。
看護師さんが脇に立っている。
以前、話したことがある若い女性の看護師さん。
何も言わず、静かな表情。

おや?

私は、思わず、母親の右側から近付いて、声をかけた。
帰りがけに、いつもそうしていた。
タオルケットの上から、右腕のあたりを触って、また来るからね、と意識的に、大きな声をかけてから部屋を出ていた。

その時も、そんな調子で、腕をさわり、思わず声を出してしまった。
少し、揺すりさえして。
本当に、寝ているようだったのだ。呼べば、目を覚ましそうなほどに。

「あれっ。お母さん、どうしたの?」

見渡せば、いつもの点滴は、もう、はずしてある。
横に立つ、看護師さんを見上げ、答えを求める。
しかし、小さく頷くような仕草だけ。

えっ、そうか。
そうなのか・・・もう、逝ってしまったのか。

後から聞けば、午前中は、血圧も、まだ正常だった。
午後になり、呼吸が乱れ始めた。
そうかと言って、苦しがったわけではないらしい。
眠るように、こんな状態に入ったという。

主治医が到着し、死亡診断書に、記載された時刻は、それから30分後の16:59分。

その30分ほど、私と母親は、静かに二人、そのまま部屋にいた。
少なくとも書類上、母親は、まだ死んではいなかった。

夜、爪を切ると、親の死に目に会えないよと、教えられてきた。
思えば、それは、主に、母親から聞いた話し。

その後、風呂上がりに、爪を切ったりするたびに、時々、頭をよぎった言い伝え。

私は、母親の死に目に会えたのか、会えなかったのか。

そもそも、人の生と死は、いったいどこが境目なのか。

その30分、とりとめのない考えが、行ったり来たり、頭に浮んだ。

ふと思い付き、父親の時の、葬儀会社の電話番号が、まだスマホに残っていることを、確認したりもした。

天気の良い、午後だった。
部屋の窓から正面に、青空にくっきりと際立つ、濃く青い、山の稜線が見えていた。

昔、暗記して、その後、ずっと記憶の奥にあった、短歌が、ふと蘇った。

そういえば「斎藤茂吉」は、北杜夫さんのお父さんだったな。
「たらちね」というのは、母親にかかる、枕詞(まくらことば)で、特に意味は無かったな・・・
なんで、この短歌を、暗記しようと思ったんだっけ?

それは、斎藤茂吉の第一歌集、「赤光」(しゃっこう)の中の、この一首である。

のど赤き 玄鳥(つばくらめ)ふたつ 屋梁(はり)にゐて 足乳根(たらちね)の母は 死にたまふなり

そういえば、昔、暗記する気になったのは、来たる日の自分を、少しでも元気付けるため。その心の準備として・・・だったような気もする。

2025年7月某日

アーカイブ
のりプロ