№16 通院と粉雪(レミオロメン『粉雪』)

雑文

定期的に通院することになった。
ここ数年、職場の健康診断でずっと指摘を受けていた。
私の場合、ガンマGDPという肝臓の数値と、悪玉コレステロール、それから痛風の危険を示す尿酸値の数字が悪かった。

職場の健康診断の後、馴染みの個人病院で診察を受け、相談まではするものの、もう少し様子を見ましょうか、だけで終わるのが、このところのパターンだった。

しかし、いよいよ今年。
薬を飲み始めましょう、毎月1回通院してみて下さい、となったのだ。

診察を終え、近くの薬局へと向かう。

検査代なども含め、自己負担でも1800円。
薬局での薬代が950円ほど。
これが毎月かかり続けるのかと思うと、なかなか辛い。

もちろん、風邪や、歯医者など、これまで病院にかかり薬をもらうこともあった。
しかし、薬代などを意識したことは、一度も無い。
一時的な病気を治すためだったからだ。

今日からは違う。
治りました、もう薬は良いでしょうとなる日が、果たして想定されるものなのだろうか。
薬の種類が変わっていくことはあるだろう。
しかしこれからは、病気のリスクを減らす目的で、死ぬまで、何らかの薬を飲み続ける日々が続くのでは無いか。

これが「老い」か、とずしりと思う。

薬局には先客がひと組。
おじいさんが、椅子に浅く腰掛けて、何かもぐもぐ食べている。
それを立ったまま世話をする女性。
本当の親子か、あるいは義理の娘か。

私も、そのうち子供に連れられて、こんな風に病院に来る日がくるのだろうか。

先日、遠い町で一人暮らしを続ける義父が、ヘルパーさんに手伝ってもらって、ようやく病院に行ってこれた、と電話で言っていた。
やれやれ、という感じで。

「いやー、生きることがこんなに大変だとは思わなかったよ。」

数年前に亡くなった父が、施設に入る直前、私にそんなことをつぶやいた時があった。
つくづく、という感じで。

それを言わせてしまった。
そんな悔いが残っていて、今も時々思い出す。

病気を抱えていた父が、重い認知症の母と二人暮らしを続けることは、もはや限界だった。
妹と二人で、焦って施設探しを進めている最中のことだった。

その時父は、哲学的に、「生きることは」と、言ったわけではない。
それは、極めて即物的な話しとしてなのだ。

一つには三度のご飯に困っていた。
お金に困って、という意味ではなしに。

私も妹も、食べやすいような食材など、可能な限り、せっせと持ち込んでいた。

しかし、父は体を動かすのが辛い。
母は事実上、頭を働かすことが辛くなっていた。

例えば当時、蓋が開いて、麺ははそのままに、かやくの袋だけどこかへ行ってしまったカップラーメンを、家のあちらこちらで見かけるようになっていた。
カップラーメンを作ることすら、その時の二人には難しくなっていたのだ。

「帰ったらご飯を食べなければならないでしょ。」

薬の調合を待つ薬局の長椅子。
女性の、そんな声が耳に入る。
おじいさんは、少しうつむいて、それでもまだ、もぐもぐやっている。

横目で見る二人の向こうの、窓の外。

午前中の柔らかい日差しのなかで、細かい雪が、輝きながらふわふわと舞っていた。

2024年1月某日