№30 ピーマンと「ねこプロ」(佐野洋子『100万回生きたねこ』)

雑文

憂鬱な雨の月曜日。
職場へ向かう、いつもの朝のバスの中。
また同じことを考えている。

自分は、何時までこの繰り返しを続けるつもりなのかと。
次に進む準備は続けている。
後は決断だ。

小さい頃、ピーマンの味が苦手だった。
残すことはしなかった。
料理に入っていると、なるべく舌に触れないように、急いで数回咀嚼して、そのまま飲み込む。
よく、そんな事をしていた。

なんで思い出すのか。
今の私の時間の使い方が、時々、とても似ているからである。

本来あるべき、一日一日の大切さ。

ところが今、例えば、毎朝バスの中で私がやる事といえば、ネコ動画を見て、環境音楽を聴き、目を瞑ること。
仕事のプレッシャーを紛らし、心のバランスを保つため、無意味なルーティンを繰り返し、何とか時間をやり過ごそうとしている。

まるで、ピーマンを慌てて数回噛んだだけで飲み込んでしまうような空虚さだ。

「100万回生きたねこ」という絵本がある。
私が中学生の頃には、既に家にあった。
今見ても、絵柄にもストーリーにも古さはまったく感じない。

気品のある、冷たく、綺麗な切れ長の目をしたオスのとらねこが主人公。

ある時は王様、またある時は船乗りと、様々な人達の飼い猫となり、やがて死ぬ。

飼い主は、その死を悲しみ、涙を流すが、猫はどの飼い主も愛したことはない。
むしろ、みんな大嫌い。
生まれ変わって、他の誰かの飼い猫となる。

最後に、誰の猫でもない生き方をする。
自分自身の猫。
つまり、のらねこ。

愛するメス猫に出会い、子育てをする。
やがて歳をとり、メス猫が先に死ぬ。
納得した生き方をした猫は、二度と生まれ変わることはなかった。
そんな話しである。

今、私の職場では、毎年、定年年齢が延びている。
年金支給開始時期も随分後ろ倒しになってしまった。

振り回される。
制度に従って、ギリギリまで働いた後は、今度は逆に、定年です、後は何もありません、と放り出されることになる。

月曜日から金曜日まで、毎日八時間。
一年単位で、同じ役割。

後半の人生も、組織の理屈に合わせてその責任を果たそうとするところに、無理があり、辛さが出てくるのではないか。

今現在の私はといえば、落ちてきた回復力と、重くなった仕事の責任の相関関係から、休日の過ごし方も確実に影響を受けている。

月曜日からの役割を優先させて考える。
ストレスに耐えられる体力を残さねばと、逆算して準備する。

自分の時間の進め方、そのイニシアティブを自分の手に取り戻すプロジェクト。

私の中では、それが「100万回生きたねこプロジェクト」。
略して「ねこプロ」なのだ。

他に「とらプロ」というのも考えている。

小さい頃から全国を見て回りたい、放浪したい、という漠然とした夢があった。
観光ではなしに、出来れば短い期間、その土地の仕事をしながら。

それは、例えば「男はつらいよ」のフーテンの寅さんのように。

寅さんは、全国のお祭りや縁日を渡り歩いて対面販売をすることを生業としている。

結構毛だらけ猫灰だらけ

お馴染みの話術で人の心をつかみ、物を売り、収益を得て、また旅をする。

そのまま真似は出来ないが、私が何をしたいのかというと、それは、こんなことである。

車中泊なども使って全国をまわり、土地土地のネタを拾ってそれをブログに書く。
広告収益が得られるようなら、それは立派な副業になる。

自分にカスタマイズした、ある種、寅さん的な生き方。
「フーテンの寅さんプロジェクト」、略して「とらプロ」。
そんな、個人的な、いわばマイプロジェクトである。

実現に向けて、あれこれと考えている。
こうしてブログを動かしてみているのも、その準備のひとつ。

自分の心と体、命と時間。
労って、慈しんで生きていくべき。
そう自分を励ますようにしている。

心と体は同義、時間と命も同義だと思う。

ピーマンを丸呑みするように、慌てて時間を押し流している場合ではないのだ。

2024年9月某日

 

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