勤務時間終了後すぐのこと。
仕事上の昔の苦労話しを、ふと思い出した。
それを引き合いに、今進んでいる案件のリスクについて、部下に一言話しておきたくなった。
帰る前にと、担当課長のデスクへ向かう。
それは、近くの席の、中堅職員のM君にも聞かせておきたいエピソードだった。
担当課長に向かって、少し大きめの声で立ち話を始める。
M君は、今後リーダーになっていくことが、自然と周りから期待されている人材だった。
ゆくゆく参考になりそうな話しなら、なるべく彼にも伝えておこう。
それは折に触れ、私が心がけてきた習慣だった。
しかし。数週間前のこと。
お盆の期間、まとめてとった夏季休暇明け。
重い心と体を引きずって、ようやく職場に出てきた、その朝一番。
その担当課長から、ちょっと相談したいことがあるんですが、と隣の会議室へと促された。
硬い表情。
「またきたか」
何かのトラブルが起きたことは間違いない。
こんな思いはもう沢山。
計画通り、早期退職に向けて準備を進めよう。
だから、そこまでは何とか頑張ろう。
自分を励まし励まし、自席から立ち上がる。
もっとも、隣の部屋に移動するまでの短い時間の中でのこと。
心の中でつぶやいたフレーズは、幼稚にもこんなことにすぎないのだが。
「辞めてやる、辞めてやる・・・」
会議室に入ると、M君が座って待っていた。
神妙な顔付き。
彼が何か、大きなミスをしたのだろうか。
二人の話しが始まる。
それは、意外な展開だった。
M君は、転職を考えている、という。
既に、お盆期間をはさんで次の職場の内定が出ている、というのだ。
聞けば、そこでやりたいことがある、自分のスキルを試したい。
そんな前向きな思い。
我々や、今の職場が嫌になって、ということではないらしい。
もはや決意はゆるがない様子だった。
その後、若干の調整を経て、現在は彼の希望通り、数か月先の退職を、組織として受け入れることで落ち着いている。
そして、今。
担当課長へ、何か注意したりする際に、M君の耳にも入るように、少し大きめの声で話してきた、これまでの私の習いぐせ。
もう虚しいな、と思いつつ。
私が昔、同じような局面で何故、苦労したのか。
その経緯を、M君にも聞こえるくらいの声で、担当課長へ説明する。
予想できるリスクなら、後で皆が苦労しないで済むよう、それは避けてほしいから。
職場を後にして、帰りのバス停へと向かう。
信号待ちとなる。
見上げると、高い位置の秋のすじ雲と、低く、夏のなごりのモフモフとした雲が重なった空。
数日前、テレビで解説していた。
これがその「行き合いの空」か。
二つの雲の高さに、差がある。
違う方向へ、交錯しているようにも見える。
調べてみると、すじ雲は巻雲(けんうん)、わた雲の方は積雲(せきうん)というらしい。
巻雲は高度1万メートル以上。
高度1万メートルといってもちょっとピントこないが、巻雲と積雲との距離は10㎞位になる。
平面で想像すると、10㎞は、もう隣町。随分と、遠い。
転職するというM君に、実は私も早期退職を考えている、とはまだ言えていない。
果たして、この数か月の間に、その機会はあるだろうか。
見上げた、交わらない二つの季節の雲。
何だか似ているな、と思った。
2024年9月某日
