母親の入っている施設から、こんな連絡があった。
主治医のところで、状況について、説明を受けて欲しい。
近くで、内科を開業しているS医師が、主治医となっていた。
母親の施設では、S医師や近隣の看護師と提携を結び、訪問医療の体制を組んでいる。
妹と二人で、S医師のクリニックへ行って、相談してほしい。
なるべく早く、という話し。
母親の認知症は着実に進んでいて、暫く前から、自分で食事をするのも困難になっていた。
口まで運ぶ介助をしてもらい、ようやく少し、もごもごと飲み込む。
そんな段階になって、久しかった。
それが、この数日、飲み込むということを、嫌がるようになった。
無理に食べさせようとすると、いわゆる誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)のリスクになもなる。
この先、いくつかの選択肢がある。主治医とよく相談して家族で決めて欲しい。
そんな説明を、施設の責任者から受けたのだった。
妹が調整してくれて、翌週の金曜日の12時、外来診療が終わった後、S医師から、クリニックで話しを聞くことになった。
その金曜日。お昼前。
大分、早くクリニックに着いてしまった。
駐車場に車を停め、そのまま待つことにした。
妹も、じきに車で来るだろう。
そこは、もともとコンビニがあった場所だった。車の出入りや、駐車にストレスがない。
時々、立ち寄っていたコンビニだった。
つぶれた後、どんな店になるのだろうかと、しばらく気にしていると、ほどなく、駐車スペースはそのままに、元の建物を活かした、四角いクリニックがしあがったのだ。
後から思えば、その合理性と安直さは、どこかS医師らしくもあった。
S医師と会うのは、数年前、同じように、父親の病状について説明を聞いて以来。
当時、父親は、まだ家で、認知症の母親と二人で暮らしていた。
父親の、急な衰えには気付いていた。
しかし、それ以上の考えが無かった私は、S医師の説明を聞いて愕然となった。
それは、病気の進行に止まらない、ある種、構造的な問題だった。
10数年前、S医師が開業した直後、クリニックを訪ねて、関係をつくったのは、そもそも父親の方からだった。
その後、両親がそろって入ることになった、その福祉施設も、S医師と提携を結んでいた。
そして、そのまま二人の主治医となったのである。
考えてみれば、ある種の必然だったかもしれない。
父親も含めて、皆、近隣で、在宅医療という道を、模索している人達だった、訳だから。
当時、進行の遅いガンを抱えていた父親は、自分で、積極医療を止める、という決断をした。
自分の考え方、気持ちをまとめた長文のレポートを作って、内科のS医師のところへ持ち込んだらしい。そして、以後の主治医となってくれるように頼んだのである。
或いは、それが、完結していない医療を中断することに対する、病院側の条件だったかもしれない。せめて、後を託せる医師を探して来ること、というような。
あの日、S医師が私に伝えたのは、父親のおかれた、こんな状況だった。
当然ガンも転移しているはずだ。もっとも内科の医師である私には、詳しいことは分からない。治療しないのだから、検査することもない。認知症の奥さんと二人で家で暮らすのは限界。至急、どこか受け入れ先を探す必要がある。例えば夜、急に何があってもおかしくない段階だ。一方で、かつて拒否したのだから、今更、大きな総合病院は受け入れてくれないだろう。どこか、適当な施設が見つかればよいが・・・
その後、父が、死に辿り着くまでの経緯。
その道筋。そこで起きたこと。
少しずつでも書き残すことが、私のひと仕事だと、ずっと思ってきた。
それは、私の子供達にとっても、必要になる情報のはず。
今の日本の制度や仕組みの中で、だれにでも起こりうること。
自分の死を前にして、はたと、困ること。
私の両親の場合、一つには「医療」と「福祉」の狭間で困った。
どこか二人一緒に移る施設を探したい。
しかし、父親は「医療制度」を使う側、認知症の母親は福祉、つまりは「介護制度」を頼る側。
制度が違えば、施設も違う。
かつて父親が「医療」を断った、ということも問題だった。
介護の施設では、医療行為は行えない。
しかし、いよいよ死を前にして、痛みなどの不安も感じ始めていた様子の父親。
当然、病院の医療行為なしでは心細い。
「昔、拒否したくせに。こんなにひどくなってから来て。いったい、我々に、これからどうしろっていうの?」
総合病院の医師の、そんな残酷な心の声も、容易に想像された。
あの日、S医師の説明が、ようやく頭に入ってきた、その瞬間。
父親のおかれた苦しい状況を理解して、胸が痛んだ。
そして、急に焦りを感じた。
早く、なんとかしてあげないと。
穏やかに死ぬために!
妹の車が、クリニックの駐車場に入ってきた。
私には気付かず、駐車して、スマホを取り出した様子。
また一つ、重い決断がまっている。
母親だったら、こんなふうに言うかもな、とふと思う。
「少し、しゃきっとしなさい」
心の中でだけ苦笑いして、車を降り、妹の方へと、向かった。
2025年5月某日