№52 レジリエンスと探し物(『合鍵』に想う)

ちちプロ

朝、家族の、こんなLINEのやり取りに気がついた。

鍵を無くして家に入れない。誰か開けて欲しい。
それは前夜の午前零時頃。二男からのもの。
夜更かしの長女から、呑気な「オッケー」のスタンプが返信されている。
どうやら無事、家に入って今は寝ているようだ。

妻が亡くなって、まもなくの頃。
当時小学生だった二男が、やはり家の鍵を無くしたことがあった。
確か、休日に、外で友達と遊んで、帰ってきて気付いたもの。

マンションを契約するときに、営業の担当者から、くれぐれも鍵を無くさないこと。最悪の場合、全世帯の鍵を交換する騒ぎになりかねないから。そう釘をさされていた。

オートロックなんだから、他の人にも迷惑をかけかねない。大変なことなんだぞ、と他の子供達の意識にも残るよう、少々ヒステリック気味に、その時私は、声をあらげた。

すぐに小学生の長男と、まだ保育園児だった長女もつれて、車で二男の行動範囲を探しに出た。
幸い、二男が遊んでいたという公園で、ジャングルジムのような遊具の真ん中の、砂の上に落ちていた鍵を、長男がもぐって見つけ出してくれた。

今回、二男が鍵を無くしたその翌日。
私が帰宅した後、暫くして、二男と長女が連れ立って戻ってきた。

長女にも手伝ってもらって、昨日歩いたルートをたどり、鍵が落ちていないか探してきたという。
警察にも届けてきた。飲み会をした店にも行ってきた。もし、見つかったら電話してもらえるように段取りも付けてきた。
やれる事はやった。

それから、もう一つ報告がある。
四月からの配属先が決まった。O市である。
この家からは、通えない。職場の宿舎があるというので、希望したが、それでよかったか。

二男は、一息で、そんな説明をした。
私が怒り出す前に、との計算もあったと思う。

鍵探しについては、私が考えつくのもそこまでだ。
宿舎の方も、お金が貯まるまでは、その方が良い。
私に何も、異論は無い。

それにしても。
二男の初任地は、家から通える所だろうと見込んでいた。
数年は、朝食を食べさせてリズムを作ってやったり、社会人の身だしなみとして必要な、ハンカチやら靴下やら、様子を見ながら買ってあげたりできると算段していた。
長男にも、そうしてきた。
家から通った方が、お金も早く貯まる。少し体制を整えてから、自立するのが一番。
そんなことを考えていた。

しかし。
そうか、その作戦は駄目なのか。

昔、妻が、車の鍵を無くして困ったことがあった。
それは、結婚する前のこと。
その頃、私は東京勤務となっていて、自分の車は引き払ってしまっていた。
休日、地元にもどって、彼女の車で、近場の観光地の旅館に泊まり、遊んでいた。
宿についてまもなく、車の鍵が無い、そう彼女が騒ぎ出した。
部屋の中にあるはずなのに見つからない。私も探したが駄目だった。

彼女は、実家に合鍵がある。
遠いが、父親に頼んで、もって来てもらうしかない、といった意見を主張した。
しかし、それは、お義父さん達に、挨拶を済ませる前のこと。
私は頭に血が上った。
それはまずい。どうするんだ。どうしてくれるんだ。

妻は、けろりとしていた。

部屋の中の、館内の施設案内の冊子の下から、ほどなく鍵は見つかった。

そうしたリスクを減らす方法はあるのだ。

私の場合は、ズボンの右の前ポケット、左の前ポケット、後ろポケット。
鍵、財布、ハンカチなど、それぞれ入れる場所を決めている。
スラックスや、ジーンズ、ズボンの種類が変わっても、その位置は動かさない。
無意識に頻繁に上から触って確かめもする。
手応えや、違和感で、もし何かが無くなれば直ぐにそれと気付くことができるのだ。

旅館に泊まりに行った時などは、鞄の同じポケットに、鍵や財布など、必ずまとめて入れておく。

無くした後の騒ぎが億劫だから、ルーティンとして、何度も確認するくせが付いている。
もし、スマホを無くしたら。もし、カードの入った財布を無くしたら。
そのリカバリーの手間を想像しただけで、気が変になりそうだから。

常にリスクを想像し、それを避ける行動をとる性(さが)。
果たして、それが幸せなのかは考えもの。内心、そう思ってもいる。

「レジリエンス」という言葉を、最近聞くようになった。
困難を乗り越えて回復する力、といった意味で使われる。

調べてみると、「ストレス」とならんで、もともと物理学の用語だったらしい。
「ストレス」は外部からの力による歪みであって、「レジリエンス」はその歪みを跳ね返す力。
ちょっと面白い。

今や、ともに心理学などを経て、一般的に使われる言葉である。
「レジリエンス」の意味として、簡単に「ストレスを跳ね返す力」と説明されたりするのだ。

妻、そして、その性格を濃く引き継ぐ二男。
物を無くしたりするトラブルも多い。
しかし、後始末に怯まない逞しさも、どこからか与えられている。

トラブルが嫌だからこそ、それを避けるよう注意して行動する。
一方、後始末を苦にしなくなってくると、普段の注意が疎かになって、ミスの原因ともなりうる。
卵が先か、鶏が先か。

いずれにせよ、子供達に、私からの心配性の血だけでは無く、妻ゆずりのレジリエンスの血も混じったことは、長い人生を思えば良いことだと思っている。

今年の父親の命日は、ちょうど休日にあたった。
長女をつれて、墓参りへ行った。

ロウソクをつけ、目に付くところだけ、少し掃除をしながら、お墓の前で、私は長女に、ついこんなことを話した。話してしまった。あまり深い意味は無かった。

鍵を無くしたことは困るし、まずいし、腹立たしくもあるんだけど、本当にショックだったのは、いよいよ二男が家を出ることが決まったこと・・・なんだよね。

その時、長女は、まぁしょうがないよ、とそんなことを言った。
私の方は、口に出して少しすっきりしたのだと思う。
しかし、その分、長女には、知らず知らず、もやもやを引き取らせてしまった。

後から思えば、そんなことも数日後の、ちょっとした長女の泣きべそ事件につながったのだ。

我々家族も、また一つ、新しい春を迎えようとしている。
それは、喜ばしいことだ。

しかし、春には必ず、ほろ苦さもついてくる。

2025年2月某日

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