№25 戦メリと漫画のコマ割り(夏目漱石『夢十夜』)

ねこプロ

坂本龍一さんが亡くなって、もう一年が過ぎるらしい。
休日出勤のため、職場へと向かう車の運転中のこと。
朝のニュースの中の特集が耳にとまった。

車載テレビは、走り出すと画像は消えて、音だけになる。
信号待ちなどで、一旦停車した時、途切れ途切れで画像を見ることになる。
それでも一瞬で、坂本龍一さんの話題に切り替わったことが分かる。
それは、戦場のメリークリスマスの、あのピアノの旋律が流れるからだ。

「TIME」という舞台の紹介だった。
坂本龍一さんがコンセプトを考え、曲はすべて書き下ろしたもの。

夏目漱石の夢十夜などの朗読を背景に、舞踏家の田中泯さんが一人、演じる。

夢十夜の中から使われるのは、一つ目の話しだけのようだ。
「第一夜」という言い方になる。

坂本龍一さんにとって、大事なストーリーだったのだと思う。

また会いにくるから待っていてほしい、と言い残して死んだ女の墓の側で百年待つという話し。
「自分は」という一人称の目線で語られる。
長い歳月が過ぎ、欺されたのではいかと思い始めた頃、墓に真白な百合の花が咲く。

「百年はもう来ていたんだな」と、この時始めて気が付く、という結末。

坂本龍一さんの死生観だったようだ。

同じようなメッセージが、最近、よく目にとまる。
昔から世の中に沢山溢れていたものに、私が気付かなかっただけ、なのだろう。

今、よく思うのはこんな事である。

私のこの一生。
自分の、この一瞬、一瞬。
それは、例えるなら、漫画のコマ割りのようなものなのではないか。

本棚に並べた漫画の単行本のように、過去も未来も、もともと全てそこに収まっている。
途中の巻を開けば、その時々のシーンが、それぞれのコマに描かれている。
例えば私と妻との一場面、一場面も、変わらずそこに存在し続けている。

増えもせず、減りもしない。

時間の軸に縛られて、先へ先へとしかストーリーを辿れないのは、この次元の「観察者」である「私」の側の都合なだけ・・・

時間は幻。

そんな言葉も、坂本龍一さんの生前のインタビューの中にあったように思う。

わずか数秒のフレーズが流れただけで、瞬時に、その存在感が、多くの人の心に蘇る。
そんな曲を残すことが出来た人生。

本当に、羨ましいことだ。

車載テレビは、いつしか普通のニュースに変わっていた。

しかし、私の頭の中では、いつまでも「戦場のメリークリスマス」、即ち、Merry Christmas, Mr. Lawrence が流れていた。

2024年5月某日