義兄が、M市へ行く予定だという。
数百キロ離れたA市から。一人、車を運転して。
義父が亡くなった後、空き家となった義兄にとっての、その実家。
冬の間、水道が凍結し、漏水が生じているらしい。
業者に見てもらうため、まとめて休みを取ったという。
その予定にあわせて、私もM市まで、行くことにした。
私は、義兄にこんなスケジュールを提案した。
午後、市役所のホールで待ち合わせ、1時間程度、相続手続の打ち合わせをする。
その後、それぞれ分かれて、用を足す。
夕方、また落ち合い、居酒屋で飲みながら、話しの続きをする。
義兄には、葬儀会社や、お寺へ行く用事も残っているらしかった。
私は、義兄のために、M市で、幾つか窓口を訪ねようと思っていた。
限られた時間の中で、効率よく、書類を集めたりする必要があった。
打ち合わせの後、そのまま二人で、市役所の住民課の窓口へ、回るつもりでいた。
まずは、義父の戸籍一式を、入手する必要があったからだ。
義父が一人暮らしを続けた家は、荒れてしまっていた。
近年、M市へ戻るとき、義兄自身も、ホテルに泊まっていたらしい。
私も別に、宿を取った。
そんな作戦を考えたのは、飲みながら、ゆっくり説明しないどダメだろうと思ったからだったが、単に、義兄と飲みたい、という気持ちもあった。
いくつか、聞きたい話しも、あったのだ。
市役所に着くと、既に、入り口で、義兄が待っていた。
真面目で、口の重い義兄。
いつも何か、重い荷物を背負っているような、そんな風貌だった。
お互い、ぎこちなく会釈を交わす。
M市の庁舎は、震災の後、駅の直ぐ裏に、新たに建てられたものだった。
駅まで続くスペースには、学生が勉強できる空間などが、綺麗に整備されていた。
書類を広げられそうなテーブルを見つけ、落ち着いた。
まず、義兄に、これから数か月の間、断続的に生じる作業の流れを説明した。
ある程度のところで切り上げて、住民課の窓口へ移動した。
カウンターの椅子に、義兄と二人、腰掛けた。
女性の職員が、話を聞いてくれた。
単純に、戸籍が欲しいと申し出ただけでは、必要な書類は揃わない。
相続人が誰なのかをはっきりさせるためには、生まれてから、亡くなるまでの、その人の人生を辿る、一連の書類が必要になる。
慣れた様子の、中堅の女性職員さんだった。
それでも、その作業は、単純ではなかった。
古い戸籍は、筆で書いた縦書きである。
数字や漢字が、とても読み取りにくい。くせも強い。
義兄と私と、職員さんの三人で、カウンター越しに、頭をよせあって、文字を判読したりしながら、戸籍を辿っていった。
長年、M市で暮らしてきた義父であるが、義父が小さかった頃、義父の父親(つまりは義兄のおじいさん)が家族を引き連れて、近隣のT村からM市へとやってきたらしい。
それは、義父によい教育を受けさせたかったからだ、というような話しを、以前、妻から聞いたことがある。
職員さんが、プリントアウトした書類を見せてくれた。おじいさんが、T村にあった戸籍から、分家してM市で、戸籍をつくったようですね、と。
分家というと、いかにも俗な言葉のようにも聞こえるが、戦前はそんな制度だった。
当時は、そういう戸籍だったのだ。
義父の父親(即ち、義兄の祖父)は、子々次郎(ねねじろう)という、ちょっと変わった名前だった。
義父の家の仏間の棚に、卓上フレームで、小さな遺影が、飾ってあった。
森鴎外のような、立派なヒゲを蓄えた、紋付き袴の、白黒の写真。
しかも、森鴎外よろしく、斜め横を向いた上半身の写真だった。
おじいさんは、義父が若いころに、亡くなってしまった。
だから、私の妻も、その写真でしか知らなかった。
義兄と、真ん中のお姉さんと、妻の三人の兄弟は、小さい頃から、おじいさんのことを、その写真の風貌と、名前とで、度々、話しのネタにしてきたらしい。
妻はよく、私にも、そのネタを、言ってきた。
近くに、義父もいたりして、うかつに私が笑えないような時に限って、話しかけてきたのだ。義父が大事にしているであろう、立派な、ヒゲの写真を指さして。
「みてみて。この人。子々次郎(ねねじろう)。すごい名前でしょう。私も、会ったことないんだけど。」
続けて直ぐに、決まって、周りで遊ぶ子供達にも声をかけていた。
ちびっ子達のおなかを、中からくすぐるような調子で。
「みて、この人。何て名前かわかる?・・・子々次郎(ねねじろう)」
古い戸籍に興味をそそられた。
確かに、子々次郎さんの、そのお父さんの名前の上に、今は使わない「戸主」という表記が添えてある。
その名前に目がとまった。
「子々助」とあった。
当然その、ひいおじいさんの名前は、「ねねすけ」と読むのだろう。
そうか。「子々助(ねねすけ)」さんの子供だから、「子々次郎(ねねじろう)」だったんだ。
義兄も知らない話だった。
私と目を見合わせて、へーそうだったんだ、と笑っている。
カウンターの向こうの職員さんも、控えめに笑顔を見せていた。
思い返せば、子々次郎さんも、亡くなった義父も、ネズミ年だったらしい。
そんなことを妻が言っていた。だから子々次郎という名前になったのだろうと。
後日、戸籍を整理していて気が付いた。
子々助さんも、ネズミ年生まれだということに。
義父は知っていたのだろうか。妻は、果たして、どうだったろう。
必要な書類を入手して、義兄と二人、市役所を出た。
それぞれの目的のため、一旦別れた。
17時30分、決めていた居酒屋で落ち合った。
カウンターで、横に並び、飲み始めた。
義兄は、今は、アルコールは控えている、という。
その方が、体調が良いと気付いたから、らしい。
それでも、ビール一杯だけ、と付き合ってくれた。
二人で飲むのは、はじめてだった。
相続手続きに関して、説明すべきことは、まだ残っていた。
それでも段々、義兄の口もほぐれた。
気になっていた、義兄の奥さんのことや、子供のことを話題にした。
年上の、厳しい奥さんだった。その後も、それなりに仲良くやってはきたようだ。
料理は作ってくれるという。二人の子供も、それぞれ、結婚したらしい。
義兄は、定年まで勤め、継続雇用という立場に移って、1年目。
基本的には、同じ仕事を続けているらしい。
もう一つ、聞きたい話しがあった。
14年前、私と義兄の二人で、妻の最後を看取った。
数日、夜、交代で仮眠を取りながら、病室につめた。
妻が亡くなった日の早朝、私は、直ぐ隣にあった、私の職場に、1時間弱、戻った。
中断したままの、自分の仕事の段取りを付けたかったからだった。
整理を終え、戻ろうと思っていた矢先、義兄から、電話があった。
急いで、病室に戻った時、妻は、既に事切れていた。
その1時間ほどの間に、何があったのか。
もう一度、聞いてみたいと思いつつ、こうして14年の歳月が流れた。
話しを向けると、義兄は、こんなことをポツリポツリしゃべり出した。
私が部屋を出て、暫くして、妻が、尋常では無い表情で、苦しがりだした。
どうしよう、どうしようとなって、看護婦さんを呼んだ。
看護婦さんから言われて、私へ連絡した。
そうして、あんなふうに動かなくなった。
本当に、見たことも無い、怖いような、表情だった。
亡くなった後、化粧をしてもらって、ようやく見慣れた顔に戻った。
そして、私の方を、横目にちらりと見てから、義兄はこう言った。
間に合わなかった・・・よね?(あなたも・・・)
もしかしたら、あの日、義兄は、私に気を使って連絡をためらったのではないか。そして、連絡が遅れたせいで、私が臨終に間に合わなかったと、気に病んでいるのではないか。
長年、そんなことを、想像していた。
仮に、そんな重石(おもし)があるのなら、それは、取り除いてあげねば。
しかし、それは思い過ごしだったようだ。
義兄の言葉の意味は、きっと、こんなことだ。
先般、自分も、夜の雪道を越えて、駆けつけた。間に合っていた。それなのに、深夜の病院の窓口で拒否されて、義父の死に目には会えなかった。でも、あなたも、昔、思うようには、いかなかったよね・・・
それにしても。
妻は、そんなにも苦しがったのか。
また一つ、謎が生まれた。
もし、その場にいたら、私は何か出来たのだろうか。
やっぱり義兄のように、ばたばたして、終わったのではないか。
或いは、もしかして、私が傍にいたら、妻は、すっと向こうに行けたのではないか。
無理に、とどまろうとしたから、苦しかったのではあるまいか・・・
それは、それとして。
酔いながら、義兄と、話しを重ねた。
相続手続の話しに戻ったり、聞かれるまま、私の子供の話しをしたり。
義兄は、義父と同じように、やっぱり、子供好きなのだ。
先日、通夜で会ったとき、私の子供達に、それぞれ小遣いをやっていた。
長男と二男は、もう、給料をもらっているのに。
一人ひとりに、裸の千円札を握らせていた。
子供達も、良い笑顔で、素直にお礼を言っていた。
もっとも、ロクにバイトもしない長女は、本当に嬉しかったのだろうけど。
その店の会計は、義兄が全部、持ってくれた。
翌日の、午前中、また落ち合うことにしていた。
当分、作業は続いていく。
私にとっての第二の故郷である、このM市。
どうやら、もう少し、足を運ばなければ、いけないようだ。
大義名分ができてしまった。
店を出て、それぞれ、別の方向へ、分かれる路上で。
ふと、思いついた。
よっぱらいの別れの一言を、義兄にかけた。
いやー、今日、面白かったですよね。
「ねねじろう」さんのお父さんの名前が、「ねねすけ」って分かって。
絶対、○子が、好きそうな話しだ。
生きてたら、何回も、ネタにしただろうな。教えてあげたかった。
じゃあ、おやすみなさい。また、あした。
義兄も、軽々とした、よい笑顔を見せていた。
2026年3月某日
