№78 緑茶の入れ方(ジョン・デューイ『哲学の改造』)

のりプロ

今年も、暑い夏になった。
寝苦しい夜が続いている。

エアコンと扇風機のタイマーをセットして眠りにつくのだが、僅かな電気代を気にして設定時間をケチるので、結局、タイマーが切れた後、寝苦しくて目が覚めてしまう。
そんな繰り返し、となっている。

ある夜。
寝たり、目覚めたりの合間、こんな夢を見た。

数年前に亡くなった父親が、座敷で一人、食事をしている。
私は、奥の台所と行ったり来たりしながら、「おさんどん」をしている。
お昼のご飯、らしい。
「おさんどん」というよりも、お客さんとしてやって来ている父親に、私がご飯を出してあげている、といった感じ。

どうやら、父親の食事も終わり、皿などを片付けながら、私は、父親に、こんなことを言った。

お茶を入れるのは、お父さんの方が上手だったから、私の分と、二つ、入れてもらえないか。

父親は、一瞬、面倒くさそうな素振りを見せつつも、直ぐに、まんざらでもなさそうに表情を変え、段取りをはじめた。

まず、私と、父親の分と、二つ空の湯飲みを用意する。

次に、ポットから、沸騰させたばかりの熱い白湯(さゆ)を、その湯飲の方へ、直接注ぐ。
そして、適量の茶葉を入れた急須へ、二つの湯飲みから、白湯を移す。
一息おいて、急須から、それぞれの湯飲みへと、出来た緑茶を、改めて注ぐ。
最後の一滴まで、丁寧に。

つまりは、最も美味しく、また甘みを感じる適度な温度にするための、段取りなのだ。
同時に、その方法なら、人数分の、丁度良い分量となり、合理的でもある。

この「急須」という、お茶を入れるための「道具」。
どうやら、その「道具」のイメージが、私に、そんな夢を見させたようなのである。

このところ、ジョン・デューイの「哲学の改造」という本を読んでいた。
30年以上前、学生の頃に買った、岩波文庫の、薄い本。
結局、当時は読まずに終わってしまった。

数日前、本棚の奥から、ふと、見つけたのだ。
眠気を誘うのに丁度良いと、その後、昼寝の前や、夜寝る前に、読み進めていた。

「哲学の改造」は、デューイが日本で行った、数回の講演をまとめた本である。

いかにもアメリカ的な、プラグマティズム(実用主義)を代表する、哲学者の一人。
教育の分野でも、意義深い仕事をした人である。
子供の経験を重視する、その教育理論は現代にも大きく影響を与えている。

もっともデューイ自身は、自分の思想を語る上で、プラグマティズムというより、「道具主義」という表現を好んでいたようである。

「道具主義」は、知識や理論、或いは思想も、問題を解決するうえでの、一つの「道具」であるとする考え方。

当時、このデューイの文庫本を買ったのは、その解説に、格好の哲学入門書である、とあったからである。

学生の頃、哲学に興味を持ち、有名な哲学者の「主著」を読んでみたりしたのだが、さっぱり意味をつかめなかった。本人の著作物は、厳密な表現が積み重なって、難解なものとなるからだ。

ある頃から、いっそ他の学者などが、多少批判気味に書いたもののほうが、その思想の概要を理解しやすいということに気が付いた。そのデューイの講演をまとめた文庫本も、そんな意味で、丁度、良さげに思えたのだ。

巻末の解説には、翻訳者のこんな文章もある。

多くの哲学者が、最初から、私たち読者をエキセントリックな小哲学者に見立てるのに反して、デューイは、私たちが普通の常識的な人間であることを明るく肯定している・・・

その夜、丁度、その文庫本を、寝床で最後まで読み終えてから、眠りについた。

夜中、目が覚めて、リモコンを操作して再び眠る準備をしながら、何となくねぼけて「道具主義」「道具主義」・・・「道具主義」の「道具」って何のことだっけ、と頭に浮んでいた。
そして、直ぐに眠りにおちた。

その「道具」が、なぜだか「急須」に結びついたのだ。

実際、父親が、一時期そうして、我々にお茶を入れてくれていた。

私の両親は、ともに学校の先生をしていた。
父親と母親の年の差は三歳。
父親の方は、校長まで勤め上げて、定年で辞めた。

一緒に、早期退職してしまいたいという母親を、もう一年だけ働いた方がよい、と父親が引き留めたのだ。税金の負担を和らげる意図だったと思うが、主婦業のようなことを、やってみようという気持ちもあったらしい。

それまで、まったく家事を手伝うということもなかった父親なのに、母親が勤めていた最後の一年だけは、食事の担当を、責任を持ってこなした。

急に、少し不器用な、科学者のような料理作りが始まった。
新聞に、掲載される料理のレシピを切り抜いた、大量のスクラップブック。
当時、父親のつくったファイルが、未だに、思わぬ棚や、引き出しから出てくる。

その後、母親も退職し、食事の用意や、片付けが、やっぱり母親の仕事として戻っていた頃。
実家で、私がご飯を食べさせてもらったある時、母親が、こんなことを言った。

お父さんが、最近、上手にお茶を入れてくれるのよ。確かに美味しいのよ。入れてもらってみて。

横で聞いていた父親。
まんざらでもない様子で、食後の緑茶を入れてくれた。

日本で講義を行った当時、デューイは60歳だった。
1919年、大正8年のことである。

はしがきに、こんなデューイの文章がある。

日本独特の手厚い歓待を受けた人なら、自分に恵まれた親切に相応しく感謝の気持を現そうとすると、途方に暮れてしまうに違いない。

アメリカから来てくれた大哲学者に対する、日本の学者達の歓迎ぶりがしのばれる。酒を酌み交わし、きっと今の我々と、そう変わらない、心の交流があったのだろう。

この大正8年の時点で、デューイはそれ以前の哲学を批判しながら、プラグマティズムの立場へと話しを進めている。
そこから令和の現在まで、さらに、長い月日が流れている。

分析哲学、構造主義、更にはネオプラグマティズムと、その後も思想は、どこまでも際限なく、より精緻なものになっている様子。

しかし、肝心の大きな『なぞ』は、相変わらず、ただ解けないまま、なのではないか。

今、私は、今更、哲学史の知識を増やしたくて、古い文庫本を引っ張り出しているわけではない。

昔から変わらない、『なぞ』の手がかりを知りたいのだ。

それは、単純に言えば、「死んだらどうなるの?」という疑問。

私の肉体は、何年後かは分からないが、いずれ間違いなく、滅びて骨となる。
一方で、特別なもののようにも思える、今、こうして、考え続けている私の、この「こころ」。
本当に、ただ無くなってしまうだけなのだろうか?

ところで、夢に父親が出てきたのには、もう一つ理由がある。

古い岩波文庫の表紙に描かれた、デューイの肖像画。
眼鏡をかけた、斜めの横顔。
学者風でもあり、教育者風でもあるその風貌。
静かな、その微笑みが、どこか私の父親に似ていたのだ。

2025年8月某日

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