暫く前の、早朝。
ラジオのインタビューで、人気の絵本作家がしゃべっていた。
全国を、展覧会で巡回しているらしい。
見せる物が小さすぎるために、学生時代に作ったオブジェも展示したりして、色々と、工夫しているのだという。
なにしろ、メインの展示物は、自分が普段持ち歩いている、小さなスケッチブックに書いたイラストと文章。
日常的に、気付いたことを、その場で書き留めたもの。
それを複製にして、膨大な数、展示しているらしい。
絵本「りんごかもしれない」でデビューした、ヨシタケシンスケさんの展覧会、『ヨシタケシンスケ展かもしれない』のこと、である。
私の住むまちから、日帰りで行ける場所で、展覧会が既に始まっていた。
週末、長女に話すと、知っている、自分も行きたい、との話しになった。
ヨシタケさんは、ラジオで、こんなことを言っていた。
結局、人を救うのは、ストーリーだけなのだと思う。
遡れば、キリストや、ブッダなども、人を救うストーリーを示してくれた人、ということなのではないか。
20歳前後、私が、様々な本を読み始めた頃、キリスト教にも興味がわいた。
キリストの説く「隣人愛」。
その頃、こんなことを考えた。
確かに、自分以上に、他者を愛し、その幸せを心から願えるようなら、自分の中の苦しみは、全て消えるのかもしれない。しかし、同時に、それは、とても無理な話し。
例えば、手ひどく自分を振って他の男とくっついた女の子、或いは、自分が遂に果せなかった道で成功を収めた知人、更にはまた、自分を出し抜いて経済的に利益を得た悪い大人。
それらの人々を、それでも、心から愛し、よかったねと思えるようなら、確かに何の苦労も、苦しみもないのかもしれない。しかし、そんな考え方は、常人には、あまりにも無茶だろう・・・
当時、そんなところまで考えた。そして就職し、働き続けた。
その続きを考えることもなく、30数年が過ぎた。
今、仕事を辞め、昔買った文庫本などを読み直している。
引用されている、キリストの言葉が目を引く。
自分以上に他者を愛せというのが隣人愛。
しかし、キリストは、こうも言っているのだ。
「互いに、愛し合いなさい(ヨハネの福音書13章34節)」
なるほど。
自分以上に隣人を愛せ、と言われても、それだけでは、どうにも辛い。自分のエネルギーが、直ぐに枯渇してしまうことが目に見えているから。
しかし、仮に、隣人愛のシステムが、社会全体で確立されていたとして、自分の減ったエネルギーを、周りの人が、直ぐにうめてくれるようなら、それは、確かに成立するのかもしれない。
ヨシタケさんは、ラジオで、こんなことも言っていた。
ネガティブな考えが抜けない人らしい。
小さいスケッチブックに、イラストなどを書き留めるのは、自分の気持ちが落ちたとき、眺めて、自分を元気にするためでもある、というのだ。
リスが、来るべき冬に備えて、木の実を土に埋めて、隠しておく習性が、ふと思い出された。
展覧会の会場には、沢山の、小さなイラストを熱心に眺めて、少し、元気になっている、多くの大人達がいた。ほぐれた気持ちの大人達の中で、子どもは楽しそうな笑顔だった。
ヨシタケさんは、謙遜して、自分のために、とは言っているが、その絵本のイラストや、文章の中には、人を元気にするエネルギーが込められている。そして、それが世の中に流れだしている。
ヨシタケさんが作品に忍ばせた、ユーモアや、優しさを、我々も、静かに発見して癒やしてもらっているのだ。
SNSや、ネットの空間が発達した現在。
多くの人が、似たようなことを、実は、まねできるようになっている、と思う。
他人を思いやる優しさだとか、ユーモアだとか、自分の分が余ったのなら、リスが木の実を隠すように、ネットの中にそっと埋めておくとよいと思う。
必要になった誰かが見つけて、元気になれるように。
そうすれば「隣人愛のシステム」とまでは、いかずとも、来るべき、寒い冬の、少しは備えになるのではないか。
後ろ髪を引かれながら、展示会場を出ると、グッズの販売コーナーになっていた。
長女が、直ぐに反応した。
長女が盛んにほのめかす、シュールなぬいぐるみも可愛いが、それぞれ結構な値段である。
実用的なものを、何か一つずつだけ、買ってあげよう、ということにした。
私は、「なつみはなんにでもなれる」の、イラストが書かれた、クリアファイルを選んだ。
片面に、オムライス、扇風機、おにぎりなどのイラストが、3×4の12個、描いてある。
始めは、あまりピントこなかった。オムライスなどのイラスト自体は、普通。
ひっくり返すと、それぞれのイラストに対応した箇所に、毛布にくるまったり、片腕をぐるぐる回したりしている、なつみちゃんのイラストが描かれていることに気が付いた。和む。かわいい。
「なつみはなんにでもなれる」は、なつみちゃんが、何の形態模写をしているのか、お母さんに、あてて、あてて、とせがむ話しなのだ。
違うデザインの、長女の分のクリアファイルも買い、会場を後にした。
長女も、心が軽くなっているのが分かった。
なつみちゃんのイラストを眺めているうち、つくづくデザインの力、というものを考えた。
人を救うもの。
「ストーリー」とともに、やはり、「デザイン」も、なのではないか。
話しは多少、ぼやけるが、そうなると、更に単語を加えたくなってくる。
それは、「メロディー」と「リズム」である。
最近、耳に残って離れない曲がある。
テレビアニメの「ダンダダン」の第一期オープニング曲、「オトノケ」。
Creepy Nuts(クリーピーナッツ)の曲。
ラップから、メロディーに切り替わる部分が心地良くて、耳に残った。
歌詞については、音の響き中心で、ほとんど意味は把握できないだろう、と考えていた。
きっと、面白おかしさの方に、比重があるはず。
しかし、歌詞が表示される、動画なども眺めているうち、だんだん沁みてきた。
最後のフレーズが、印象的なのだ。
母親の葬式を出したばかりの私としては、むしろ、泣けてくるほどに。
それは、こんな歌詞である。
何度だって生きる お前や君の中 瞼(まぶた)の裏や耳の中
胸の奥に居着いているメロディー、リズムに
ダンダダンダンダダンダンダダンダンダダン・・・・・・
人を癒やし、救うもの。
ストーリーにデザイン。そして、メロディーにリズム。
語呂で、四つ並べたくなったものの、ダンダダンの歌詞を眺めているうちに、気持ちは、ぐるっと元の所に戻ってきた。
デザインや、或いはリズムに乗ったメロディーに、我々が癒やされるのは、やはり、それらを貫く「ストーリー」、「思想」があるからこそ、なのかもしれない。
結局、ヨシタケさんが言うとおりなのかもしれない。
(因みに、ヨシタケさんが「かもしれない」を多用するのは、厳しい人に指摘されて、怒られるのが嫌だから、なそうである。)
「思想」とまで言うと、堅苦しいが、こんなふうに言い換えることもできる。
人を救うストーリー、思想とは。
「昔、誰かが誰かのために、必死で何かを伝えたいと思っていました。」
と、いうようなこと・・・なのかも、しれない。
2025年7月某日