№57 運動(村上春樹『1Q84』)

ねこプロ

退職を前に、先輩からお昼ご飯に誘われた。
秘書が付く立場まで上り詰めた方。

職場の裏のビル。
地下の料理屋の個室を予約したので、12時になったら来て下さい。
数日前、秘書からそんなメールを受け取っていた。

昨年後半、人事当局へ伝えた私の早期退職の意向。
早い段階で、報告が、先輩のところへも届いていたはず。
呼びつけられて、考えが甘いとたしなめられる場面もあるのではないか。

そんな覚悟はしていた。
しかし、秋から冬にかけての関門は、そのまま黙って通してくれた。

結婚式にも出てくれて、その後の私の苦労を知っている人。
子どもはどうした、大丈夫か、と気にもなっていたことだろう。

食事をしながら、ぽつりぽつり。
これまで考え続けてきた、私の人生後半のプランを説明した。

村上春樹さんの「1Q84」(いちきゅうはちよん)という長編小説がある。
当時、随分と流行ったものである。
私はといえば、数年前、文庫本になってからようやく読んだところ。

「青豆雅美」という、奇妙な名前のヒロインが登場する。
物語の後半、彼女が相当長期間、マンションの一室に身を潜め、外にまったく出ない日々を送るという展開が続く。
それは、危険な組織から身を隠しつつ、20年間探し続けた、唯一心から愛した人である「天吾」君にまた会いたいからなのだ。

物語とはいえ、なぜ、建物の中での、こもりきりの生活が成立するのか。

それは、青豆さんがスポーツインストラクターをしていて、知識もあって運動も得意な人だから。
ストレッチを含む運動で、毎日数時間、体の隅々まで筋肉をしっかりと動かす。

1984年が舞台。紛れ込んでしまった、二つの月のある不思議な「1Q84年」の世界。
青豆さんの孤独な「運動」のシーン。
その後、なぜだか時々思い出された。

地下の料理屋での食事を終え、職場へ戻る途中。
信号待ちをしながら。

先輩がこんな話しをしてくれた。
暫く前、検査の数値が悪かった。
医者から、酒を止めるか、運動するかどっちかだと言われた。

酒を止められるわけはない。
しかたがないから、その後、毎朝、数キロ走っているのだ。

それだけである。
説教臭いニュアンスはなにもない。
「医者から選べって言われてさ」と、洒脱に紛れて、自分の話しをしてくれただけ。

最後に残った気がかりだったのだろう。
私のプランに抜けている部分。
それは、確かに日々の「運動」だ。

私がやるとすれば。
例えば、ヨガが思い浮かぶ。
まずは、ヨガマットが幾らくらいするか、ネットで探してみることから始めようか。

いや、もっと切実な問題かもしれない。
早朝、歩くことから始めよう。

朝日をしっかり浴びて、体を動かすこと。
体にとっては勿論だが、なにより心にとって必要なことだろう。

きっと先輩も、そんなことを伝えたかったに違いない。

2025年3月某日

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