№41 「ルビコン川を渡る」或いは「賽は投げられた」(塩野七海『ローマ人の物語』)

ねこプロ

私の早期退職の件。
いよいよ人事当局の耳に入る段となった。
気持ちを確認するための、ヒアリングなども始まった。
どうなることか。
どこへ行き着くのか。

「賽は投げられた」という表現がある。
並んで「ルビコン川を渡る」という慣用句も良く聞く。

違う時代にルーツを持つ、たまたま同じ意味の、別の二つの言葉だと思い込んできた。
「賽は投げられた」の方は古そうだ。
しかし、「ルビコン川を渡る」は確か、近い時代の軍隊の作戦行動とかではなかったか。

調べてみると、実はこうだった。
紀元前。ローマ時代のカエサル・シーザー。
軍隊を率いて、ローマを目指してルビコン川を渡った時に、覚悟を決めて言い放った言葉。
それが「賽は投げられた」だったのだ。

つまり、同一のエピソードに端を発する二つの言葉なのだ。
何となく少し不思議でもある。
どうして二つそのまま、現代まで生き残ったのか。

遠征から戻ったカエサルの軍隊。
イタリア北部のルビコン川を超えて南下し、ローマへ戻る際には、武装解除することがならわしだったらしい。
しかし、その時カエサルはそのまま軍隊を率いて、ルビコン川を渡り、ローマへと向かった。
敵となってしまったかつての仲間、ポンペイウスと雌雄を決するために。

「賽」はサイコロのこと。当時からあった。
サイコロはもう振ってしまった。
後は、出た目を確かめるだけ。

BS日テレの「小さな村の物語イタリア」という番組をよく見ている。
イタリアの地方で暮らす、市井の人々の自分なりの人生哲学。幸福を語る言葉。
素朴なそのコメントに、毎度、不思議なくらい必ず感銘を受ける。

何か、家族で幸せに暮らすための法則のようなものがあるのではないか。
それは、もしかしたらローマ時代に遡る、長い長い歴史の末に行き着いた、ある種の社会的な「仕組み」なのではないか。
そんなことをずっと考えながら見ている。

しかし、今のところ、何かをはっきり掴めた感じはしない。

ささいな事だが、一つ気付いたことはある。

よく見かける家族での会食のシーン。
日本で見かけるその手の宴席の様子に比べ、遙かに皿数が少ないのだ。

例えば、ニンニクをオリーブオイルでじっくり炒めてから作る、パスタはとても美味しい。
仲良く食べている料理の味に、皆が、大いに満足していることは間違いないと思う。
きっとワインにも良く合っているはず。

一方で、準備に加え、洗い物が少なくてすむのは重要なことだと思う。

誰か(たいていは主婦)が、沢山の品数の料理を作り、食べ終わった後の洗い物にも追われる。
そんな誰かのケア労働の犠牲の上になりたつ団らんでは、きっとどこかできしみが生じるのだ。

「幸せの仕組み」は、勿論、それだけではないはず。
例えばリフォームしながら長く使い続ける、美しい建築物にも重要な意味があるのではないか。

しかし、その先が分からない。

塩野七海さんの「ローマ人の物語」にもしかしたらヒントがあるかもしれない。
ずっとそう思っているのだが、何しろ、文庫本で40冊を超えるボリュームのようだ。

途中の巻からいきなり読む手もあると考えている。
例えば、カエサル・シーザーの逸話のあたりなど。

おそらく、これからは、もっと読書の時間も確保できるはず。
そう思えば少し楽しみでもある。

生活を変え、前に進むときだ。

賽は投げられた。
私も既に、ルビコン川を渡ってしまっているのだ。

なるほど、一つ気が付いた。
迷いが多ければ多いほど、言葉を重ねたくもなるものだ。

カエサルの逸話。
必要に迫られて、ふと思い出してきた、多くの先人達。
きっと、同じような想いだったに違いない。

2024年11月某日