暫くぶりに、東京へ向かった。
4月になったら遊びに来いと、従兄弟たちから誘われて。
新幹線に乗るのも数年ぶり。
駅に行ってから切符を買おうと、ふらりと家を出た。
平日にしては、随分と混雑している。こんなだったろうか。
窓口で、ようやく通路側の席を一つ、確保する。
ホームで、自分の乗る車両を探しながら。
それにしても。
どこかに感じる、この違和感。原因は、なんだろう。
そうか。
インバウンドの外国人が、やたらと多いのだ。
数年前とは段違い。
アジア系の家族連れなどが、普通に旅の風景に溶け込んでいる。
はしゃいでバタバタとホームを走る外国人の子供達。それを追いかける、リュックを背負った褐色の肌のお父さん。
3列がけの通路側の、自分の席を見つけ、ようやく落ち着く。
列車が、なめらかに走り出した、その後も。
連結部のトイレなどを目指して、すぐ私の横を、多くの外国人が、行ったり来たりしている。
先がつかえて、少し立ち止まった旅行者の背中。一瞬、目の前で止まる。
東南アジアの青年だろう。
「モアナと伝説の海」に出てきそうな、丸く大きな背中。
いかにもよく似合っている、Tシャツの背中のプリント。どこか見覚えがあった。
大きく一つ、正面から招き猫が描かれている。なにやら目つきの悪い招き猫。
一瞬、間があって気がついた。
そうか。「ダンダダン」に出てくる、ターボババアの招き猫だ。
「ダンダダン」は、少し前、長男が面白いよといっていて、私も読み始めた漫画である。
ターボババアは、主人公に力を与えた強い悪霊。その招き猫には、ターボババアが封じ込められているのだ。
東南アジアの青年の、肉付きの良い背中に、ターボババアのイラストが、丸く曲線を帯びて、妙にフィットしている。
1991年(平成3年)、東北新幹線は、ようやく東京駅まで乗り入れた。
その前の数年間は、上野駅止まりだった。
その頃大学生だった私。
上野駅周辺は、帰省の際の必要もあって、しばしば彷徨う場所だった。
もう一つ、私が作り始めているブログ。
街角にある彫刻や、公共の建築物の写真を撮って、記事を書こうと考えている。
上野周辺には、歴史的な建造物が多い。
新幹線代をかけた分、少しでも記事のネタを拾っておきたい。
従兄弟たちとの待ち合わせまで、まだ時間があった。
上野駅で下車して、公園口の方へ出る。
まずは、国立西洋美術館へと向かう。
国立西洋美術館は、フランスを中心に活躍した建築家、ル・コルビュジエの、日本で唯一の作品。
コルビュジエが設計した、世界各地の建築は、現在、まとめて世界遺産となっている。
大学時代、時々、国立西洋美術館へも行った。
それは、モネやゴーギャンなどの絵画が見たかったから、だった。
当時、建築自体には、あまり興味が無かった。
美術館の中に入るとすぐ、建築のコンセプトを説明した、パネル展示があった。
しかし、それは斜め読みしただけで、順路を先に急ぐのが常だった。
パネルの一つに、巻き貝のイラストとともに、「無限成長建築」というコンセプトを説明したものがあった。
無限に成長する建築?
大学生の頃は、きっと何か、高尚な観念的、理念的なことを語っているのだろう、くらいに眺めただけで、よく理解できないまま、考えるのを止めていた。
今回、数十年ぶりに、記憶の奥にある巻き貝の絵とともに、説明の文章を、ぼんやりと眺めた。
「なんだ。そんな現実的な話しだったのか。」
コルビュジエが設計した本館は、上から見れば真四角な建物である。
展示すべき絵画などが増えたら、真四角の建物の周囲ぐるりに、もう一回り大きな真四角の建物を増築する。さらに展示物が増えたら、外側にさらに大きな真四角の建物を増築する。
そうしてコレクションの増加に応じて、無限に展示スペースを拡張していこう、というコンセプト。
それが「無限成長建築」の意味するところだったのだ。
巻き貝のイラストは、そのイメージを表現しただけ。
当時、なんでこんな単純なことを、素直に受け取って、理解できなかったのか。
きっとそれは、芸術や権威というものに、必要以上に身構えてしまったからなのだろう。
多かれ少なかれ、似たようなことは、日常、よく起きているのだと思う。
想像すると、ちょっと恐ろしいことでもある。
気付かないだけならまだしも、極端な場合には、悪い方に誤解していたりする。
本当は幸せな状況を、誤解して、不幸として捉えたまま、人生が終わったとしたら、それはある種の悲劇だろう。いや、むしろ喜劇かもしれない。
ターボババアのTシャツを着ていた、あの東南アジアの青年にしても。
日本の伝統的な招き猫のイラストだと勘違いして買ったのだろうか。
或いは、日本でもまだ現在進行形の「ダンダダン」の情報を、しっかりキャッチして気に入って、旅先での服として、わざわざ選んだのだろうか。
前者の場合は、よくある面白話だが、仮に、後者のパターンだったとしても、想像すると、それはちょっと面白い。主役ではなく、敢えてターボババアのイラストを選んでいるあたりが。
「ダンダダン」のストーリーを知っていようがいまいが、関係ない。
シュールな招き猫のイラストを気に入ったのなら、それで良いではないか。
そもそも世の中に、情報があふれすぎているのだ。
全部に正面から向き合おうとする方がどうかしている。不要な情報は、スルーすべき。
そんな考え方も、或いは、あるのかもしれない。
そうなると。
時間をかけて理解すべき、自分にとって大事な情報とはいったい何なのか。
それを、どう選別したらよいのか。
今の私にとっては、こうしてブログの文章を書く作業自体が、そのヒントの一つにはなっているのだと思う。
立ち止まって、自分の記憶を、もう一度吟味する。そんな作業を繰り返しているのだから。
国立西洋美術館の、入り口前の広場には、いくつかロダンの彫刻がある。
ブログの記事に使うため、「地獄の門」は、何パターンか、写真に収めた。
「考える人」の方は、少しベタすぎるだろうと思って、撮るのをやめた。
そうだ。
もう一つのブログで、国立西洋美術館を紹介する記事。
締めは、こんな文章にしよう。
「いつでも大量の情報が手に入る、こんな世の中だからこそ。
落ち着いて、情報のその先を、しっかり見定めないと、大事な意味や、価値。
場合によっては幸せを、取りこぼしてしまうことにもなりかねない。
美術館からの帰り際、正面広場の、ロダンの有名な彫刻を、もう一度、振り返りながら、そんなことを考えていた・・・」
2025年4月某日