事務所の開設に向けて、作業を進めている。
先日、私の住むエリアを管轄している支部へ、申請書類を出すところまで漕ぎ着けた。
次は、この仕事の事務所として、一応の条件をクリアしているか、調査員がやってくる段取りになっている。相手方と、日取りも決めてある。
事務所とはいっても、施設に移った私の両親が残した、郊外の一軒家である。
不要な日用品も、あちらこちら、まだ残ったままになっている。
目に付く範囲だけでも、ネジを巻いて掃除しなければ。
庭の雑草も伸びている。
もう一度、草刈りもしたい。
部屋で、一人、片付けを進めていると、以前、雑多な物を、おっつけていた出窓の一角から、鉛筆などの文房具に交じって、二枚の紙が出てきた。
書道で使う半紙だろう。高級な紙質。
二枚重ねて半分に折りたたんである。
楷書で書かれた、端正な文字がならんでいる。
写経か何かだろうか?
ざっと目を通すと、それは、父親へあてた「手紙」、だった。
わざわざ筆で書いてあるが、古いわけではない。
令和2年1月とある。
その日付の頃。母親の認知症と、父親の病気が進み、二人の、この家での生活が急激に荒れはじめていたタイミングである。
封筒も見当たらず、居間の、文房具の中に紛れていたのも、きっと、そのせい。
父親は、読んだ後、書斎にしまうことをせず、近くに置いたままにしていたのだ。
それは、沿岸部のK市で、一人暮らしをしていた、叔父から、父親へあてた手紙だった。
叔父の奥さんが、母親の実の姉。
つまり、父親と叔父には、血のつながりは無かった。
しかし、不思議な縁で、強く、結ばれていたように思う。
二人とも、酒好きだった。
家族で、お互いの家を、度々行ったり来たりした。
夜、叔母と母親が永遠とおしゃべりし、私と従兄弟達が、無限に子どもの遊びを続ける中、飲んだ後、必ず二人、囲碁をしていた。
手紙は、年賀の挨拶に始まっていた。
続けて、私の母親の認知症の具合はどうか。その前年の11月に、叔母を、ついに近くの施設へ移した。二日に一度のペースで会いに行っている、と綴られている。
会話のないことは淋しい。しかし、日々、こんなふうに過ごしている、ともある。
四時になったら、晩酌をはじめストレス解消。
火気点検、戸締まり。七時、床に入りテレビ。八時に就寝。
四時から晩酌か・・・。ちょっと、良いかも。
日本酒に囲碁、そしてなにより庭木の世話を、愛した人だった。
施設に移った叔母は、その手紙の年の年末、令和2年12月に亡くなった。
叔父は、その2年後、令和4年5月に亡くなった。
最後まで、庭の手入れと、晩酌を欠かさず、一人暮らしのまま、向こうへ逝った。
新聞が、乱雑にたまる玄関先を、不審に思った近所の人の通報で、数日後、発見されたのである。
事務所の片付け。
だんだん少し、飽きてくる。
掃除の手を止め、家の中から、庭のバラの周りの雑草の伸び具合を眺めていると、手前の小さなボケの木に、赤い花が一つ咲きかけているのが目に留まった。
この数日、ネットで、ボケのことを調べていた。
剪定のコツを知りたかったからである。
花言葉は、「先駆者」や「早熟」などらしい。
早春、他の花より、一足先に咲き始めるから。
我が家でもそうだった。
この春も、早々に複数の花が咲き、そして散ってしまった。
6月となった今、奔放な角度へ枝が伸びている。
そろそろ剪定して、整えないと。少し、気が重くなっていたところだったのだ。
何故か一輪だけ、可愛い花芽を付けている。
それが、今、まさに開こうとしている。
このボケは、3年前、叔父が亡くなった後に、形見分けとして、もらってきたものだった。
K市での葬儀を終え、帰ろうとする私に、従兄弟が、沢山ある盆栽の中から、どれでもよいから幾つか持って行け、と促したのだ。
その家で育った従兄弟は、今は、関東で働き、暮らしている。
叔父が、日々、手をかけていた数十鉢もの盆栽。
もはや、毎日の水やりは不可能。
どれでも好きなものを、車に乗せて、持って行ってほしい。
私が、自分の家に戻るまで、2時間近いドライブとなる距離だった。
車の中で、植木鉢が転がって、土がぶちまけられる映像が、頭に浮かんだ。
私は、根元に「ボケ(白)」と手書きの札が刺してある、安定感のありそうな、小さな鉢植えを一つだけ選んだ。
従兄弟は、後は枯れてしまうだけ。もう一つくらい持って行かないか。これあたりはどうだ、と指さした。
「ボケ(赤)」と、札がある鉢。
奔放な方向に、枝が伸び始めている。
いかにも車の中で倒れてしまいそうな不安定さにも思えたが、従兄弟の気持ちを思えば、断るのは忍びなかった。白と赤、二つの鉢を車に積み込んだ。
自宅のある街へ戻り、その足で、郊外の、既に両親が施設へ移った後の、この家の庭先に、直植え(じかうえ)したのである。
肥料などもやってはみたが、「白」の方は、とうとう根付くことなく枯れてしまった。
これで「赤」の方まで、枯らしてしまったら申し訳がない。
気をもんでいると、冬を越え4月早々、ぷくりとした蕾を、幾つも付けたのである。
今回、ネットの動画で調べて、ようやく腑に落ちた。
花が咲き終えた後、あちこちへ新たな枝を伸ばすのが、毎年の正常な姿なのだ。
3年前の5月、枝振りが落ち着いていた「白」の方は、きっと既に進む力を無くしていたのだ。
木瓜(ボケ)のことを調べているうちに、木瓜皿(もっこうざら)という表現にも行き着いた。
可愛いリズムで、「もっこ皿」と言ったりもするらしい。
画像を見れば、これまでも見かけてきた、馴染みのあるデザインである。
木瓜紋(もっこうもん)という家紋も、見れば多くの人が、嗚呼あのデザインか、となると思う。
木瓜紋の由来は、瓜(うり)を輪切りにした形、という説が有力。
ボケにしても、瓜のような実のなる木だから「木瓜」と表記されるようになったとの説。
つまり「瓜」が起点。
しかし、むしろ「ボケの花」の印象こそ、中心なのではないか。
もっこ皿の、妙に可愛い形も、木瓜紋の、誰もが昔から知っているようなデザインも、ボケの花の魅力に直結しているように、思えてならない。
ボケの花は、日本人に、昔から愛されてきた花なのだ。
叔父は、教員を退職した後、日々、書道も熱心にやっていた。
さすがに、手紙を筆で書くことは、無かったと思う。
しかし、あの時、どうして毛筆の手紙を届けたくなったのか。
その手紙は、父親と母親が、この家を去る、ほんの数か月前にたどり着いた。
そして、鉛筆に紛れた中から、こうして私が見つけて、読む事になったのだ。
この先、どういう経路で、届くことになるかは分からない。
しかし私も、次の文章を、子孫に宛てた、一つの「手紙」のつもりで書いておく。
叔父から託された赤いボケ。
昨年、適当に、伸びた枝を剪定してみた。
切った枝に後ろめたさも感じ、幾つか、庭の片隅に、挿し木してみた。
ダメでもともと。その後はほったらかし。
この春、そのうちのひと株が、どうやら根付いたようなのだ。
挿し木で増えていくという、この感覚。
なんだか面白い。これからも続けていくつもり。
これまで、この家に、ボケは無かった。
この先、事務所の庭先に、毎春、沢山の赤い花が咲くようになったとして。
それは、K市のおじちゃんが、欠かさず水遣りしていた、あの一鉢から、全部、増えたものなのだ。
2025年6月某日