№83 やせがえる(『小林一茶』に想う)

ちえプロ

車中泊の夜は、ずっと雨だった。

車の屋根を打つ雨音に、時々目が覚めたり、うつらうつらとしたり。

早朝、目が覚めた後も、不思議と、寝不足のだるさは無かった。
静かな心持ち。

山あいの、道の駅の駐車場。夜明け前。

トイレに行きたくなったが、もう少し明るくなるまで粘ることにして、タブレットを取り出した。

調べたい事があったのだ。
遙々(はるばる)この土地までやってきて、理解せずには、後悔しそうな人物。

それは、江戸時代の俳人、小林一茶について、なのである。

昨日、夕飯を食べられそうな場所を探していたときに、一茶記念館の看板を見かけた。
ゆかりの土地であることは、間違いがなかった。

やれ打つな 蠅が手をすり 足をする

いくつか、記憶の奥から、俳句が出てくる。
しかし、それ以上に、例えば経歴などは、何も思い浮かばない。

ネットで調べると、直ぐに、詳細に生涯を辿ることができた。

今いる、この長野県信濃町。
当時、柏原と呼ばれたこの土地が、一茶が生まれ、そして終焉を迎えた土地なのである。

歯ブラシとタオルも持って、トイレへ。
雨は、気にならないほどの小降りになっていた。今日は、晴れに向かうはずだ。

前日の夕暮れ、どんよりとトイレの前に座り込んで、スマホをいじる若者がいた。
どうやら、出入りに邪魔にならない場所へテントを張り、夜を明かしたようだ。

今は、テントから出て、片付けや身支度を始めている。
昨夜とは打って変わって、動きに生気がある。
彼もこれから、今日の目的地へと向かうのだろう。

車に戻り、カバンの奥の、少しひしゃげたパンを食べ、私も、直ぐに出発することにした。

かなり早いが、まずは目的の童話館へ。
そもそも別のブログの記事に使う、その建物の写真を撮るために、やってきたのだ。

町営の童話館は、標高の高い、高原の中に建設されていた。
雨上がりの朝霧に包まれて、静かに佇んでいた。

まだ、人影はない。
気兼ねなく、周囲ぐるりから、何枚も写真を撮ることが出来た。

絵本画家の、いわさきちひろ。
彼女が、アトリエにしていた山荘が、同じエリアに移設されているはずだった。

童話館と隣接しているはず。
しかし、周辺をうろついてみたものの、どうしても行き着けない。

童話館の開館時間となり、中へ。
まずは、スタッフに、気になるアトリエのことを、聞いて見た。
すると、童話館の中庭を通ってだけ、行き着ける配置になっているとの説明。

通路を抜けると、直ぐに小さな山荘の、かわいらしい外観が見えてきた。
中に入る。ほんの数部屋だけの、簡素な造り。好感が持てる。

大きな窓から視線が抜けて、緑の木々が見渡せる。

当時の画材道具なども、書きかけの雰囲気で、展示してあった。
少しだけ、作品も飾ってある。

優しげで、どこか儚(はかな)げな子供の絵。
好きな人は多いと思う。

説明パネルの一文に、アトリエとしてこの地を選んだのは、小さい頃から、ちひろが、一茶の俳句に親しんでいたからだ、とあった。

不思議なようでもあり、必然のようでもある縁。

ちひろを始め、多くの児童文学関係者が、別荘を持ち、集まっていた黒姫高原。
そんな背景から、童話館の建設話しも持ち上がった。
目玉の一つが、「モモ」などの作者である、ドイツ人のミヒャエル・エンデに関する展示物。

エンデに惹かれて、遙々この土地までやって来たが、時間を遡って、私が、一茶に辿り着くことになったのも、或いは、偶然ではなかったのかもしれない。

童話館を出ると、雲がひらけ、まぶしい日差しが注いでいた。
青空に輝く建物の写真も、十分、撮ることができた。

丁度良い時間となり、再びまちへ。10分程で、一茶記念館、着。
空いている。映像なども、見放題。

知っているようで、知らなかった、一茶の人生。
それは、こんな生涯だった。

生まれたのは1763年(宝暦13年)。
本名、小林弥太郎。一茶は俳号である。

小林家は、そこそこ裕福な自作農家だったらしい。
一茶が3歳の頃、母親が亡くなってしまう。
義母との関係が悪く、15歳の時に、江戸へ奉公に出ることになる。

20歳を過ぎて俳句の世界へ
東北や、
四国、九州へと旅をしながら俳句の修行を続ける。

39歳の時に父親が亡くなり、義母(及び義弟)との間で、長い長い相続争いが始る。
俳人としては、全国的に有名になった。しかし、ずっと生活自体は貧しかったようだ。

50歳の冬、故郷に戻り、借家住まいをしながら遺産の交渉を重ね、翌年、ようやく和解。
およそ13年を経てのことだった。

52歳で、28歳の妻、菊を迎え結婚。
3男1女に恵まれるものの、子どもは全員、幼くして亡くなる。菊も37歳で病死。

その後、再々婚までして、1828年(文政10年)65歳で、その生涯を閉じる。
一茶が亡くなった数か月後に生まれた娘が、ようやく元気に成長し、子孫を残す。

苦労続きの人生だった。
亡くなる直前に、一帯の大火にも見舞われている。
唯一、焼け残った土蔵でしばらく暮らし、そこで亡くなっている。

しかし、悲劇に嘆き悲しむだけの人生ではなかった。最後まで、門人をまわり、俳諧師匠として旅に明け暮れるという、元気な生き方をした人である。

一茶の俳句にまつわる思い出が、一つある。
ずっと、いつか子供達に、特に長男に、伝えねば、と気になっていた話し。

昔、妻は、子供のためにと、やたらと壁に張り紙をしていた。
雑誌の付録についてきた、九九や漢字のポスターはもちろん、学習効果がありそうな、ことわざなどを自分で紙に書いて、ぺたぺたと貼っていた。

デザイン文字、いわゆるレタリングのようなこと自体も、好きだったのだと思う。
妻と知り合った頃、彼女が書いた文字を見て、人柄を信頼したのを覚えている。

自分は、彼女自身より、その書く文字の方を、先に好きになったのではないか。
当時、そんなことを、時々考えた。

トイレにも、色々な張り紙がしてあった。
妻が亡くなった後、トイレの分だけは、直ぐにはがして、片付けてしまった。

紙やテープが、日々、劣化していくのを見るのは、辛くなるだろうと思ったからだった。

便座に腰掛けて目の前の、一番目立つ位置に貼ってあったのが、一茶の俳句、なのである。
大きな文字で、それぞれ一つずつ、二枚の紙に書かれた二つの句が、ぺたりと貼ってあった。

長男は2月生まれ。いわゆる早生まれだった。
保育園の頃などは特に、同学年の友達と比べ、一回りも二回りも小さかった。
場合によっては一年近い成長の差となるのだから、当然なのである。

ちびっこの長男のことを、妻は、特に案じていたと思う。
トイレに貼ってあったのは、「やせがえる」の句だったのだ。

長男のことを励ます気持ちだったはず。早々に片付けてしまったが、そんな貼り紙があったことを、大きくなってから、改めて長男に伝えておかないと、と思い続けてきた。

それにしても。
もう一つの句は、はて、何だったろう。

ずっと、思い出せないままだった。
ごく見慣れた、一茶の句だったことは覚えている。
「やせがえる」ほどのメッセージはない、とも思い込んできた。

今回、記念館の展示を見ながら、気になって、改めて、考えていた。
一茶には、こんな句もあった。

我ときて 遊べや親のない雀

母を亡くした一茶が、孤独だった少年時代のことを思い出して、詠んだ句だと言われている。
経歴を辿ると、まず出てくる、有名なこの句を、当時、妻も眺めていたと思う。

一茶の句を、トイレに貼ったのは、妻の病気が分かった後のことだった。

段々、記憶が蘇ってきた。

当時、妻は、一茶って随分可愛そうな人だったのよ、ということを言っていた。
悲しすぎる句もアレだから、こっちの俳句を書いたけどもね、とも。

妻は、小雀に思いを託して、きっと、もう一つの句を選んだのだ。

二つ並べて眺めると、当時の妻の気持ちが、分かってくる。
長男はもちろん、三人の子供達にあてて、妻なりにエールを送りたかったのだと思う。

この秋、私は北信濃まで、片道600㎞の旅をした。
結果、どうやら片道14年の、記憶を辿る旅にもなった。

我が家のトイレに腰掛けて、正面の位置に貼ってあった白い紙。
懐かしいその文字は、全部の漢字にルビもふり、丁寧にこう書いてあったのだ。

雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る
やせ蛙 負けるな一茶 これにあり

(現代語訳:ほらみんな、後ろから車が来たよ、気をつけて。まーた、ダイエット、ダイエットって。もっと食べないとだめでしょ。お母さんに比べればガリなんだから。ガリ。何があっても大丈夫。ほら、お母さん、ここでずっと見守ってるからね。)

2025年10月某日

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