№39 苦役列車と銀河鉄道(西村賢太『苦役列車』に想う)

ねこプロ

私が西村賢太さんを知ったのは、その死亡の報道によってである。

思い返せば、記憶の片隅に、芥川賞受賞後の、記者会見の様子がぼんやりと蘇ってもくる。
そうか、あのときの作家か。

突然の死に至る経緯はこうである。
夜、タクシーに乗って帰ろうとしたところ、具合が悪くなり、そのまま病院へ向かった。
着いた頃には、既に心肺停止の状態だった。

その特異な経過とともに、私とまったくの同い年であることに驚いた。
端的に言えばショックだった。
後から知ったが、生まれた月まで同じなのだ。

芥川賞を取った「苦役列車」の文庫本を買い、直ぐに読んてみた。
浪人の末、ようやく東京の私立大学に潜り込み、私が一人暮らしを始めた、丁度同じあの時代。

そうか、北町貫多も、同じ空の下で、あんな風に、もがいていたのか。

西村賢太さんの小説は、名前を全てもじった「北町貫多」が主人公。
「私は」という表現こそ使わないものの、紛れもない私小説(わたくししょうせつ)。

文庫本には、もう一遍、作家としてどうにか原稿料が入るようになった後の様子を描いた作品も収められている。味わいがあって印象に残っている。

しかし題名が思い出せない。
「苦役列車」ほどのインパクトは無かったはず。
どんなだったろうかと、改めて確認するとそれはこんな題名。

「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」

そうか、売れてからなお、そんな気持ちだったのか。

宮沢賢治さんは、さらに若くして亡くなった。
小学生の頃から、偉人として馴染んでいて、本当は「さん」付けにするほうが気恥ずかしい。

出会いそのものがいつだったのか、どの作品だったか、既に思い出せなくなっている。

「銀河鉄道の夜」を文庫本で手に入れてしっかり読んだのは、大学生の頃か、或いは浪人時代。
それこそ、「苦役列車」の中の北町貫多と同じ年の頃。

「銀河鉄道の夜」は、私にとって、もはやかけがえのない作品の一つとなっている。

この数年、思い出すことが多かったのは、冒頭の場面。
教室で、先生の質問に答えられないジョバンニ。

父親が行方不明になった心労に加え、病気の母親の世話。
毎日、活版所で働いてもいる。

疲労の蓄積と、心的ストレスとで、知っていたはずのことも思い出せなくなっているのだ。

私の場合は、多分に加齢による衰えではある。
しかし、日々、慣れない家事に追われ、蓄積される疲れとストレス。

年々重くなる仕事上の責任。
重要な知識が、記憶に定着しない焦り。

そんな時、ふと、ジョバンニのことを思い出していた。

宮沢賢治さんが亡くなったのは37歳の時。
私はとうにその年齢を過ぎた。

賢治さんが経験しなかった、三人の子供の父親にもなった。
妻に先立たれ、母親の役まで演じ、その目線から見える世界も体感することになった。

それが、今また一つ、転機を迎えようとしている。

2022年(令和4年)2月4日夜、西村賢太さんはタクシーの中で心肺停止となり、そのまま運ばれた病院で、翌朝亡くなった。享年54歳。死因は心疾患。

閉店のシャッターは、あるとき突然、降りてくる。
同い年の西村さんが進むことが出来なくなった時間を、空間を、その後も私は、日々生きている。

後半の人生を、どのように生きていくべきか。
悔いが残らないようにするにはどうしたらよいか。
私が、真剣に考え始めたのは、あの報道を見た後のことである。

今、前に進まなければならないタイミングが迫っている。

私小説の中に紛れ込んだとしたら、きっとこんな風に「北町貫多」にどやされる局面なんだろうと想像している。
そうして自分を励ましている。

「畢竟(ひっきょう)ぼくは生きたのだ。全体てめえはどうしたい?
何時まで、蛆々(うじうじ)してやがって。」

2024年11月某日