№22 幕引きのとき(立花隆『臨死体験』)

雑文

昨年の大晦日(2023年12月31日)、中村メイコさんが89歳で亡くなられた。
「乾杯で送る会」を行ったという記事をネットで見かけて、はじめて知った。
夫の神津善行さんも、いつの間にかもう92歳になっていたようだ。
以前は、お二人それぞれテレビでよく拝見した。
いつまでも明るく可愛げのあったメイコさん。
夫の善行さんが大好きな気持ちが、周りの人にもよく伝わってきた。

記事によると、メイコさんの最後の経過はこう。
NHKの紅白歌合戦を見ていたところ、メイコさんが具合が悪くなったと訴えたので、善行さんが寝室へ連れていった。
その後すぐに善行さんがまた寝室へ呼ばれ、体を抱き起こすと、しばらくこうしていてほしい、と言ったという。
善行さんの言葉。
「僕の小指に人差し指をぶら下げてきた。1分くらいで力が抜けてきて、指がぽろっと落ちた。その時に息を引き取ったらしい。人生の幕の引き方が非常にきれいだった。」
二日後の善行さんの誕生日には、事前に発送されたカードが届いた。
そこには「愛してます」と書かれていたという。

休日の朝、私はダイニングテーブルにノートパソコンを広げて、その記事を読んでいたのだが、反射的にどっと涙がこぼれてしまった。
大学生の二男が遅い朝食をあさりに起きてきたので、とりあえず素知らぬふりはしたものの。

メイコさんと善行さんとの関係性は、私と妻とのかつての日常にとても良く似ている。
しかし、臨終に至るその数時間はあまりにも対照的だ。
私の中には、いつまでも消えない悔いが残っている。

妻が治療を続けた大学病院は、一本道路を挟んで、私の職場のすぐ裏手にあった。
二年弱の間、妻は、治療のため定期的に入退院を繰り返した。
入院期間中も、毎日、昼休みと夕方、必ず妻の顔を見に行った。

私自身の心をどういう方向へ持っていったらよいのか。
必ず治ると信じて、それを強く口に出すようにしたほうが良いのか。
或いは諦観して受け入れる姿勢であるべきか。

その頃、ずっと迷い続けていた。
何か考え方の芯になるような手がかりはないか。
すがるような思いで読んだ本の一つが立花隆さんの「臨死体験」だった。
結局、その時求めていた答えは見つからなかったが、今思えば、この先また必要になる本かもしれない。今度は自分のために。

ある金曜日の夜半、妻は、いよいよ重篤な状況となった。
病院側の指示で、近しい人達に連絡を取った。土日にかけて、順次病室を訪れてくれた。
まだ小さかった子供達を私の両親の家に預け、義兄と私の二人で、交代で休憩しながら24時間体制で病室に詰めることとなった。

月曜日の朝、その状態がまだ長く続くように思った私は、私服のままだったこともあり、8時半の始業の前、職員が集まってくる前に、職場に行って、小一時間ほど、抱えている仕事を整理したいと思い立った。後輩への当面の指示なども伝えておきたい。

それが7時30分頃だったと思う。
義兄にその旨説明し、後を頼んだ。

ぼんやりと目を開けていた妻にも声をかけた。
その時の私には、妻は少し落ち着いた状態のように見えた。
むしろ永遠にそんな時間が続きそうな錯覚すら覚えていた。

会話への反応が難しい時間が多くなっていたが、目は覚ましている様子だったので、私は顔に近付いて、大きめの声で言った。

「ちょっとだけ職場に行ってくるからね。すぐに戻るからね。」

すると、妻は急に顔をしかめ、無言でぽろぽろと涙をこぼしはじめた。
それまで声をかけても無反応で、しばらく意思疎通自体難しいような感じだったのに。

結婚以来、あまりにも残業が続く私の無理な働き方を、妻はずっと気遣ってくれていた。
そんな関係性だった。

私は、その時、その涙の意味を、仕事も苦しいだろうに自分のために寝ずの看病をさせてごめんね、という意味だと受け取った。

私は、どうか気にしないで、という気持ちで、
あらあら、泣かないで。大丈夫、大丈夫。30分位で、少しだけ片付けたすぐに戻るからね。
と、そんなことを言った。

そして私は病室を後にした。
後にしてしまった。

結果的にそれが妻との最後の会話になった。
8時30分前、義兄から、苦しみ出している。看護師さんから呼び戻すように言われた、との電話がきた。

病室に駆けつけたとき、妻の魂が、もうそこにいないことは明らかだった。
高校からの悪友の、主治医になってくれたSが、申し訳なさそうに言った。
「こういう状態だからさ・・・」

苦しみを長引かせるだけの蘇生措置はしないことを事前に十分話しあっていた。
私は、わかった、という旨を伝えた。

死亡時刻は、私がついた後の8時35分にしてくれた。
「してくれた」と感じた。

それが2012年2月28日のことだった。

妻の最後の涙の意味を、その後、何度も何度も考えている。
答えは出ていない。

「お願い、行かないで。もたないよ。もうお別れのときだよ。」

本当はそういう意味だったと想像すると、あまりにも辛い。

その時、私の仕事は一年近く準備してきた大きな契約手続きの最終局面になっていた。
一時間弱でも職場で整理出来たおかげで、そのまま忌引きとなり、長期休暇となったものの、無事、仕事上の責任は果たすことができた。

また、私が職場に戻っていた間の様子を義兄から聞く限りでは、苦しがりはじめて、何か話すという事はなく、そのまま逝ったということだった。
そうだとすれば、涙とはいえ、ようやく最後のコミュニケーションが取れたということにもなる。
そんなことも何度も何度も考えてきた。

それにしても。

最後の最後まで、泣かせちゃったな。

そんな気持ちが消えることはない。
もう一度だけ、ありがとうとでも言えていたなら、或いはもう少し心が軽くなっただろうか。
そんなこともいつまでも考え続けている。

きっと私と妻との物語は、まだ上手く幕が引けていないのだ。

こうして少しずつでも文章に起こすことで、いつかどこかにたどり着ければ良いと願っている。

2024年3月某日

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