№22 マクヒキノトキノコト(立花隆『臨死体験』)

ちえプロ

昨年(2023年)の大晦日、中村メイコさんが89歳で亡くなった。
「乾杯で送る会」を行った、という記事をネットで見かけて、はじめて知った。

夫の神津善行さんも、いつの間にかもう92歳になっていたようだ。
以前は二人を、よくテレビで見かけた。

いつまでも明るく、可愛げのあったメイコさん。
夫の善行さんを大好きな気持ちが、よく伝わってきた。

記事によると、メイコさんの最後の経過はこうである。

NHKの紅白歌合戦を見ていたら、メイコさんが具合が悪くなったと訴えた。
善行さんが、寝室へ連れていった。
その後またすぐ寝室に呼ばれたので、行って体を抱き起こすと、メイコさんは、しばらくこうしていてほしい、と言ったという。

善行さんの言葉。
「僕の小指に人差し指をぶら下げてきた。1分くらいで力が抜けてきて、指がぽろっと落ちた。その時に息を引き取ったらしい。人生の幕の引き方が非常にきれいだった。」

二日後は、善行さんの誕生日だった。
事前に発送されていたカードが届いた。
そこには「愛してます」と書かれていたという。

休日の朝、私はダイニングテーブルにノートパソコンを広げて、その記事を読んでいたのだが、反射的にどっと涙がこぼれてしまった。

大学生の二男が、遅い朝食をあさりに起きてきたので、とりあえず素知らぬふりはしたものの。

メイコさんと善行さんとの関係性は、私と妻とのかつての日常に、とても良く似ているのだ。
しかし、臨終に至るその数時間は、あまりにも対照的。

私の中には、いつまでも消えない悔いが残っている。

妻が治療を続けた大学病院は、一本道路を挟んで、私の職場のすぐ裏手にあった。

二年弱の間、妻は、治療のため定期的に入退院を繰り返した。
入院期間中も、毎日、昼休みと夕方、必ず妻の顔を見に行った。

私自身の心をどういう方向へ持っていったらよいのか。
必ず治ると信じて、それを強く口に出すようにしたほうが良いのか。
それとも諦観して、受け入れる姿勢であるべきか。

その頃、ずっと迷い続けていた。
何か考え方の、芯になるような手がかりはないか。

すがるような思いで読んだ本の一つが、立花隆さんの「臨死体験」だった。
結局、その時も、そして今も、ほしい答えは、見つかってはいないが。

二月最後の金曜日。
夜半、妻は、いよいよ重篤な状況になった。
個室の、集中治療室へ移された。

病院側の指示で、近しい人達に連絡を取った。
土日にかけて、皆、病室にやってきてくれた。

看護師さんから、今後は24時間体制で、親族の誰かが、交代しながら、病室で妻の様子を見るように、と求められた。
仮眠する時に使う、畳の部屋の場所も、教えてくれた。

夜は、義兄と私の二人で、交代で、妻の病室に詰めることになった。

月曜日の朝になり、その状態がまだ長く続くように思った私は、職場に行って、小一時間ほど、抱えている仕事を整理したいと思い立った。

スーツではなく、私服のままであることが気になった。
行くなら、早朝、職員が集まってくる前がよい。
それなら目立たず、自分の仕事ができるだろう。
そんなことを、思い付いたのだ。

考え始めたのは、7時前、だったと思う。
暫く、迷っていた。しかし、ぐずぐずしているとタイミングを逃してしまう。

交代で朝食を食べたりしていた、義兄に説明し、後を頼んだ。

ぼんやりと目を開けていた妻にも声をかけた。

その時の私には、妻は落ち着いた状態のように見えた。
むしろ、永遠にそんな時間が続きそうな、錯覚すら、覚えていた。

目は覚ましている様子だったので、私は顔に近付いて、大きめの声で言った。

「ちょっとだけ職場に行ってくるからね。すぐに戻るからね。」

すると、妻は急に顔をしかめ、無言でぽろぽろと涙をこぼしはじめた。
少し前、声をかけても無反応で、暫くぼんやりと天井の方を、眺めていたのに。

結婚以来、あまりに残業が続く私の無理な働き方を、妻はずっと気遣ってくれていた。
そんな関係性だった。

私は、その時、その涙の意味を、仕事も苦しいだろうに自分のために寝ずの看病をさせてごめんね、という意味だと受け取った。

私は、どうか気にしないで、という気持ちで、
あらあら、泣かないで。大丈夫、大丈夫。30分位で、少しだけ片付けたらすぐに戻るからね。
と、そんなことを言った。

そして私は病室を後にした。
後にしてしまった。

結果的にそれが、妻との最後の会話になった。
8時30分前、義兄から、苦しみ出している。看護師さんから呼び戻すように言われた、との電話がきた。

病室に駆けつけたとき、妻の魂が、もうそこにいないことは明らかだった。
高校からの悪友の、主治医になってくれたSが、申し訳なさそうに言った。
「こういう状態だからさ・・・」

苦しみを長引かせるだけの、蘇生措置はしないことを、事前に話しあっていた。
私は、わかったと、ただ頷いた。

死亡時刻は、私がついた後の8時35分にしてくれた。
「してくれた」と感じた。

それが2012年2月28日のことだった。

妻の最後の涙の意味を、その後、何度も何度も考えている。
答えは、出ていない。

『お願い、行かないで。もたないよ。もうお別れのときだよ。』

本当はそういう意味だったと想像すると、それは、あまりにも辛い。

その頃、私の仕事は一年近く準備してきた、大きな契約手続きの、最終局面になっていた。

そのまま忌引きとなり、長期の休暇に入ったものの、無事、仕事上の責任を果たすことができたのは、その時、一時間だけでも職場に出で段取りを付けられたからだ。

また、私が職場に戻っていた間の様子を、後から、義兄に聞いた限りでは、苦しがりはじめて、何か話すという事はなく、そのまま逝ったということだった。

そうだとすれば、涙とはいえ、おかげで最後のコミュニケーションが取れたということでもある。

そんなことも、何度も何度も、考えてきた。
それにしても。

最後の最後まで、泣かせちゃったな。

そんな気持ちが消えることはない。

もう一度、ありがとうとでも言えていたなら、或いは少し、心が軽くなったのだろうか。
きっと私と妻との物語は、まだ上手く幕が引けていないのだ。

妻との思い出を、こうして少しずつでも文章にしていれば、いつかどこかにたどり着けるのだろうか。
今は、そんなことを、考え続けている。

2024年3月某日

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