№49 かにともも(赤松利市『藻屑蟹』)

ねこプロ

朝の出勤時。
職場のある八階まで。朝だけは階段で登るようにしている。
一応、健康維持のため。

早朝の、その時間帯。
外部委託の清掃員の人達も、階段の踊り場などを使いながら、作業をはじめる準備をしている。
床を水拭きするためのモップを、ところどころ立てかけたりしながら。

女性の作業員が多い。
小さく挨拶しながら、階段をすれ違う。
中には、高齢の男性の姿もちらほらと見かける。

そんな時、決まって「ベッポじいさん」のことが、ふと頭をよぎる。
ミヒャエル・エンデの「モモ」に登場する、モモの親友の「道路掃除夫ベッポ」のことが。

「モモ」は、ドイツの作家であるミヒャエル・エンデの児童文学作品。1973年のもの。
その後、映画やミュージカルとして、何度も取り上げられてきている。

本国ドイツについで、特に日本で愛されてきたようだ。
私も、小さい頃から、そのタイトルを目にする機会は多かった。

しかし、子供の頃、結局読んでみることは無かった。
通常の文庫本より幾分大判の、岩波少年文庫の「モモ」を買って、通読してみたのは、ごく近年になってのこと。

それは、作家の赤松利市さんの影響なのだ。
赤松さんは2018年に、「藻屑蟹」で第一回大藪春彦新人賞を受賞し、作家デビューした方。
当時、路上生活者だった。その作品は、インターネットカフェで書かれたものなのだ。

深夜と言うべきか、早朝と言うべきか。
寝付けない布団の中で、ラジオの特集番組で聞いて、はじめて赤松さんのことを知った。

ラジオでは、多くのエピソードが、赤松さん自身の言葉で語られていたと記憶している。
大学卒業後、大手消費者金融会社に就職。
社内のエースのような位置付けで、活躍を始めたらしい。

当時、上場を目指していた会社の中で、そのための膨大な資料作りを担当した。
チームの責任者として。
連日、午前3時、4時となるような作業。それが何か月も続いた。
数名いた部下。ことごとく病院送りとなった。

何とか仕事は成し遂げた。
しかし、自分も燃え尽きて、30歳を前に、退職することになった。

その後、起業。年収2千万円を超えるまでに成長させ、一時は経営者として、成功を収めた。
しかし、やがて会社も家庭も崩壊。

東日本大震災後、被災地での土木作業員や、除染作業員として数年間を過ごす。
その後、ついには、東京で、住所不定の路上生活者へと身を落とす。

これで人生が終わってしまうのは耐えがたい。会社員時代、マニュアルを書きまくった。文章を書くこと自体には自信がある。それを活かそう。
そう考えて、除染作業員としての経験を基に、24時間営業のネットカフェのブースで書き上げて、賞に応募したのが「藻屑蟹」だったのである。

他に、ラジオで語られていた、エピソードの一つ。
赤松さんは、常に活字を読んでいたい人。読まずにはいられない人らしい。

ミヒャエル・エンデの「モモ」。外出中にも、ふいに読みたくなることがある。
既に、家にもあるが、その度、本屋で新しい本を買う。
そして、例えば、街を歩いていて、信号待ちとなるその一瞬。
その僅かな時間も耐えられない。
本を取り出し、その場で活字を追うのだそうだ。

なんだか、印象に残った。

まずは「藻屑蟹」の文庫本を買った。ほどなく「モモ」も、手に入れて読んでみた。

その後、数年が過ぎた今。
例えば、宮沢賢治の童話のように、「モモ」は、私の中で、折に触れ思い出し、ふと考え込むきっかけになる本の一つになっている。

最近、考えていたのはこんなことである。

物語の冒頭、ベッポじいさんが、モモに語る。
長い道路の清掃を受け持った日は、とにかく無心に作業することだ。そうすればいつの間にか、時間が経って最後まで辿り着いているものだ。

当然、ここは良い話しとしての位置付け。

一方、ストーリーはこんなふうに進んでいく。

「灰色の男たち」が、人々から、言葉巧みに時間を盗み、そのため都会の人々は、ゆとりをなくし、時間に追われ、日々、あっという間に時が過ぎ去る感覚になっていく。

現代人は、往々にして、大事なことを見過ごして、慌ただしく時間を過ごしているのではないか、という寓話ともなっているわけだ。

ここで、少し、疑問に思ったのだ。

仕事を夢中でやっていれば、時間はあっという間に過ぎていく、と語るベッポじいさんの冒頭の論旨と、仕事に追われて、ものすごいスピードで時間が流れていく現代人の感覚とは、結局同じところに行き着くのではないか。

ストーリーとして、少し、矛盾しているのではないか。
或いは、児童文学でもあり、突き詰めず、漠然と、併存させているだけなのか。

と、そんなことを、職場で階段を登りながら、或いは清掃員のおじいさんに会釈をしながら、時々考えていたのである。

今回、改めて、「モモ」を開き、ベッポじいさんが、モモに語るくだりを確かめてみると、それはこんな具合。

ベッポは自分の仕事が気に入っていた。道路の掃除を、丁寧に、ゆっくりと、でも着実にやった。
「なあ、モモ。とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」

そこで、せかせか働きだす。スピードをあげる。ときどき見渡すがちっともへっていない。心配で息が切れる。こういうやり方は、「いかんのだ」。

一度に道路全部のことを考えてはだめ。次の一歩、次の一息のことだけ考えるようにする。
すると楽しくなってくる。これが大事。楽しければ、仕事がうまくはかどる。

ひよっと気がつけば、一歩一歩進んで道路が全部終わっている。どうやってやり遂げたか自分でも分からない。息も切れていない。これが大事なんだ。

確かに「灰色の男たち」のたくらみとは次元の異なる、大事なことを語っているのかもしれない。

「灰色の男たち」は、例えば床屋のフージー氏に、あなたは毎日、役にもたたないことに時間を浪費している、時間の倹約が必要だ、と彼の時間を「時間貯蓄銀行」へ預けることを勧める。そして、狂騒的に時間に追われる生き方へと追い込んでいく・・・

先般、見ていたテレビ番組に、こんなシーンがあった。
「イタリアの小さな村」の、ある若い職人が静かに語る場面。

彼は、伝統的なレンガ作りの手法で、暖炉を組み上げる職人。父親の仕事を受け継ぎ、地域の歴史のある暖炉の修復も行いつつ、新しい感覚のデザインも取り入れている様子。

人生は長い道のり。一歩ずつ、小さくとも自分で満足しながら進むことが大事なんだ。

確かにそうだ。
私自身、これからの自分の人生の歩み方ということを日々考えている。
限りがあるからこそ、最後ばかり見ていては良くないだろうとも思っている。
一歩ずつ進む感覚。

今現在、私がやれること。やりたいこと。

それは、こうして一つ一つ、少しでも納得できるような形で、自分が感じたことを、文章としてまとめて行くことだ、と思っている。

今回、改めて「モモ」の文庫本をひっくり返して、ところどころ読み直した。
改めて気付いた。大事なことが書いてある。

『なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからなのです。
そして人のいのちは心を住みかとしているからです。』

前段は、不思議なくらい、私が最近考えていることそのもだ。
もしかしたら、モモを読んだ後、意識せず、ずっと心に残っていたからかもしれない。

後段は、なかなかピントこなかった。

しかし。
暫く考えていたら、少しヒントのようなものは見えてきた。

それは、「人のいのち」と「心」は別のものだ、という感覚。

「人のいのち」は生物的な「生き死に」であって、「心」は別のところにある何か。

そんなふうに辿っていけば、或いはいつか、どこかに行き着けるのかもしれない。

いずれにしても「モモ」は、私にとっても、今や不思議な心の友だちとなった。

それからこれは、蛇足なんだけれど、ブログにつきものの、冒頭の写真。
「アイキャッチ画像」と呼ばれている。

ついついカメを選んでしまった。
それは「モモ」の話しの中で、「カシオペイア」という不思議で、魅力的なカメさんが活躍するからなのである。

2025年1月某日

 

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