平日の朝。
約束した時間に、二男が家にやってきた。
ばたばたと、長女も、出かける準備の仕上げをした。
三人で、私の車に乗り込んだ。
まずは、数キロ先の、長男のアパートへ。
長男を拾い、四人で、M市へ向けて出発した。
午後に予定されている、義父の通夜に、出るためだった。
数日前の、大雪の影響で、道路の状況は、まだ悪かった。
遅れることがないように、早めに出発しようと、子供達と約束していたのだ。
雪道は続いたものの、順調に、M市まで辿り着いた。
少し早かったが、昼ご飯を食べてしまうことにした。
魚市場などもある、埠頭の上に、近年、建設された「海の駅」へ向かった。
広い駐車場に、車を停めた。
一階に、お土産物売り場や、産直などがあり、二階に、飲食施設があった。
四人で、食事をするのも久しぶりのことだった。
海が見える、窓辺の席を確保した。
外海から隔てられた湾内は、普段は、波も穏やかである。
細かな波が、冬の日差しを、キラキラと反射していた。
ゆっくり食事をしたが、まだ、早かった。
時間調整する必要があった。
昔よく、みんなで行った、海岸へ行ってみることにした。
遠くの波打ち際を、ゆっくり歩く、老人が一人。
他に、人影はなかった。
長男と二男は、よさげな石を見つけて、水切りを始めた。
綺麗な小石が続く海岸である。
長女は、貝殻などを探して、ぶらぶらしている。
干からびたヒトデを見つけ、大きな声で、みんなにアピールしたりしている。
こんなふうに、時々、家族で、海辺までやってきた。
兄妹で過ごす、そんな静かな時間を、特に長女がよろこんだ。
通夜の時間には、まだ、早かった。
どうしようかな。
水平線の向こうを眺めながら、ぼんやりと、考えていた。
二男が、近付いてきて、この辺りに博物館は、無かっただろうか、と聞いてきた。
二男は、今年度、就職した。
しかし、実は、まだ大学を卒業出来ていない。
卒業に必要な、単位を取り損ねたのだ。
職場とも相談のうえ、10月からの下期、金曜日の午前中に休みを取り、大学に通っていた。
冬休みの課題が出ているという。
個人的に博物館へ行って、地質学に関する知見を学び、レポートを提出するという宿題。
レポートそのものというより、施設に足を運び(ちゃんと学んで)、証拠として自分が写った写真を添付する、というのがミソらしい。
市営の、小さな施設を、思い出した。
科学館という名称。しかし、水産業に関する展示物など、雑多な物が展示された、つまりは、地域の博物館のような施設、だったはず。
地元の海の、身近な魚が泳ぐ、水槽などもあった。
子供が小さかった頃、連れて行くには、手頃な場所だった。
義父や義母、亡くなった妻ともよく行った。
実は、義父が、小さな孫達に、見せたい展示物もあったのだ。
それは、昭和の時代に、実際に使われて、役目を終えた、大型冷蔵庫ほどの、大きな、無線の機械、なのである。
義父は、高校を卒業した後、地元の漁協に就職し、無線技士として、定年まで働いた。
本当は、進学したかったらしいが、父親が早くに亡くなり、長男だった義父と、母親が働いて、下の弟、妹の生活を支えたのだ。
港町であるから、多くの人達が、沖で漁業をし、暮らしている。
漁船が、安全に操業できるように、無線で情報を伝えるのが、つまりは義父の仕事だったと思う。
義父が現役の頃、実際に使っていたその機械。
無線電話や、衛星通信の登場で役割を終え、科学館に寄贈されることになったのだ。
義父は、その機械を、孫達に見せたかったのである。
暫くぶりに行ってみると、その薄緑色の、四角い機械は、変わらず、同じ場所に展示されていた。
昔、義父がそうしたように、扉を開けて、中の計器類が見えるようにした。
そして、子供達に声をかけて、写真を撮った。
三人の子供と、機械がちょうど並ぶようなアングルで。
暫く前、こっちのけんとの「はいよろこんで」という曲がはやった。
中に、トントントン、ツーツーツー、トントントンという歌詞が出てくる。
モールス信号の「SOS」のこと、である。
トンは「・」、ツーは「ー」で表記される。
3から6マスという歌詞も出てくるが、こちらは、モールス信号とは関係がない。
心電図の波形が、方眼紙に記される際に、正常値なら、その範囲のマス目におさまるらしい。
つまりは、悲鳴を上げている現代人に、数値が正常なうちに(体を壊す前に)、SOSを出した方が良い、と呼びかけるような歌詞なのである。
数年前、長男と二男が、じいちゃんから、モールス信号を教わった、と嬉しそうにしていたことがあった。思えば、それがSOSだ。
モールス信号は電鍵(でんけん)と呼ばれる道具のハンドルを「トン」と短く叩く打ち方(短点)と、「ツー」と延ばす打ち方(長点)の組み合わせで、アルファベットなどを表現する。
トントントンと短く三回が「S」、ツーツーツーとのばして三回が「O」。
そんな具合に、すべてのアルファベットに、モールス符号が割り振られている。
「トントントン、ツーツーツー、トントントン」という打ち方が、覚えやすく分かりやすい、という理由で、遭難信号として設定されることになった。
アルファベットとして見れば、結果的に、それがSOSだったということである。
つまり、SOSの言葉自体には、意味は無い、のである。
Save Our Souls(助けて)の略だと言われたりすることもあるが、これは後付けなのだという。
昔、義父との会話の中で、英語を出来る様子もない義父が、どうしていたのだろう、と不思議に思ったことがあった。
実は、ちゃんと和文というのもあるのだ。
イロハニホヘトの順で、イは「トン、ツー」、ロは「トン、ツー、トン、ツー」という具合に、すべての平仮名に、やはり符合が割り振られている。
義父は、この和文を使って、例えば沖の船へ、天気の急変を知らせたりしていたのだ。
「トントントン」と表記すると、いかにものどかにも見えるが、実際にはとても早い。
トトトツツツ・・・と、凄いスピードで、信号を打つ。
聞く方も、熟達した人は、そのまま頭の中で、文字に変換して理解するのだという。
今は、YouTubeで、打電(打鍵)の様子も、見ることが出来る。
義父は、こんなスピードで、モールス信号を打ち、同時に、相手の信号を頭の中で変換して、理解していたんだな、と驚かされる。
そうして義父は、日々、漁業者の安全を守る仕事をしていたのだ。
通夜の、1時間ほど前に、セレモニーホールに入った。
義兄や、Tさんに、挨拶をし、子供達三人を紹介した。
まずは皆で、棺の中の、義父のところへ行き、一人一人、お水取りをした。
水でしめらせた、綿棒で、くちびるをトントントン。
遺影は、どうしたのだろう。
Tさんに聞いて見ると、義父の家に入ったら、居間で写真を見つけた。何年前のものか、まるで分からない。しかし、丁度良さそうだったので、それにした、という。
結局、私が提供したスマホの写真は、使わなかったようだ。
遺影を見ると、見慣れないシャツを来ていたが、穏やかなよい表情だった。
私の知らない、楽しい日常が、他にもあったらしいことに、むしろ少しほっとした。
通夜の時間が近づき、私と、子供達も、それぞれ、指定された椅子に腰掛けた。
静かに、和尚さんの到着を待った。
昔、子供達と遊んでくれた、気さくなKさんが、立ったまま、後から入ってくる人達の対応などをしていた。Kさんが、子供達に話しかける声が聞こえてきた。
義父の遺影の写真。
実は、首から下のシャツの部分は、既存の写真と合成したものなのだ。今は、そんなことも出来るのだなと、Kさん自身も、少し驚いた、というようなことを話している。
そして、身軽に、奥から、木製のフレームに入った写真を持ってきて、元になったのは、この写真である。一緒に写っている赤ちゃんが誰なのかは、誰も知らないんだけどね、と説明している。
そろそろ、和尚さんが、着いてもおかしくない時間になっていた。
立ち歩く訳にもいかず、私は、だまってそのまま座っていた。
Kさんと子供達の様子とを、横目で見ていた。
その写真には、中央に義父、向かって左に義母、右に長女のK子さんが写っていた。
義父の膝の上に、小さな男の赤ちゃんが、落ち着いた表情で座っている。
天気の良い日に、どこか、外で腰掛けて撮ったらしい。
義父も含め、みな落ち着いた、静かな、良い笑顔。
手触りの良さそうな、その茶色と、緑の木のフレーム。
見覚えがあった。段々、記憶が蘇った。
それは、写真を入れた状態で、妻が、義父と義母に、プレゼントしたものなのだ。
そうすると、赤ちゃんは、生まれて数か月の長男、ということになる。
そこに写る、三人兄妹の真ん中の、長女のK子さん。
小さい頃から、癲癇(てんかん)の持病に苦労した人だった。
その写真の一年ほど後に、自宅の風呂場で、事故死したのだ。
K子さんが亡くなった直後、赤ん坊の長男と、4人で写った思い出の写真を、写真立てに入れて、義父と義母のために、妻がプレゼントしたのである。
「いい写真でしょ。ほら、ここに置くからね。」
義父や義母に話しかけながら、妻がその写真立ての置き場所を、自分で決めてしまったとき、私も、炬燵で、その様子を見ていたのだ。
その後の、その木製のフレーム。
坂の上のあの家の、居間の、あの棚の、ガラスの引き戸の中。
あの日、妻が決めた、あの場所に、そのまま飾ってあったのか。
20年以上も、そのままで。
そこに写る赤ん坊が誰なのか、もはや会話に上ることもないままに。
まもなく読経が始った。
手を合わせながら。
記憶に結びつく情景と、流れた時間の想像とが、頭の中で、ぐるぐると回り続けた。
それから、暫くして、今。
こうして、あの通夜の一日のことを思い出して、文章にしている。
その後、思いついて、漁業無線の動画なども見た。
義父の仕事のことを、少しだけだが深く、分かってあげられた。
と、思う。
今は、こんなふうに考えている。
赤ん坊の長男を囲んだあの写真。
みんな、穏やかなよい顔つきだった。
きっと、写真を撮った、妻にしてもそうだったろう。
間違いなく、幸せな時間が、そこにあった。
それで、良いではないか。
幸せで、満ち足りた時間だけが連続する人生などは、あり得ない。
川のように、思い通りにいかないことや、悲しいことが、後から後から、流れてくる日常。
多くの人達にとって、幸せな時間や、楽しいひとときは、そんな流れの中に、所々、ほんの僅かに顔をのぞかせる、飛び石のようなものだろう。
あの写真を撮ったあの時間、あの空間。
義父達にとっては、確かに幸せな、そんな飛び石の一つだったと思う。
なにより、そういう時間をくれた、赤ん坊の長男に、心から感謝したい。
そして、今度は、長男も含め、子供達自身が、そんな飛び石を、先へ先へとつないでほしい。
ところで。
子供達と、無線の機械が、並んで写った写真。
その後、数年ぶりに写真屋へ行き、プリントにしてみた。
その時レジで、思いつきでサイズの合う木製のフレームも買った。
今は、マンションの居間の棚に、飾ってある。
思えば、もう一人のメンバーのように、子供達と並んで、無骨な四角い機械が写った、奇妙な写真である。こうして、その経緯(いきさつ)を、文章にすることになって良かったと思う。
いつか記憶もぼやけた頃、みんなでする昔話の、きっかけ位にはなるだろう。
そして、時には、思い出して欲しい。
久しぶりに、家族で、海を眺めたあの一日。
それは、じいちゃんがくれた、大事な時間だったのだ、ということを。
2026年2月某日
