その朝、私は一人、また、M市へと向かっていた。
M市の裁判所で、相続放棄の手続を、進めるためだった。
M市まで続く道路には、並行して、地方鉄道の線路が続いている。
震災の後、急速に、道路の改良が進み、立派なトンネルが続くようにもなり、鉄路と離れる区間は増えた。
それでも、運転していると、並行して続く、赤茶けたレールが、時々、ふいに近くに寄ってきた。
そんな線路の眺めに、ふと、昔の記憶が蘇った。
思えば、同じように、冬の終わりの頃だった。
長男の、出産が迫っていた。
妻は、丸々としたお腹だった。
私は、妻と二人、M市へ向かっていた。
いつもの自家用車ではなく、わざわざ、列車を使って。
里帰り出産のためだった。
当時は、今よりずっと、雪が多かった。春先まで、残雪が残った。
雪道の長距離運転での、万が一の事故を、特に義母が心配した。
M市に来るなら、列車できてほしいという、義母の意見に、私と妻も賛同した。
土曜日、実家まで妻を送り、一泊して、翌日、私だけ、アパートへ戻るスケジュールだった。
私には、また月曜日から、残業が続く、気の重い日々が待っていた。
結婚後、まだ1年経っていなかった。
その頃、妻は、私に対する愛情を、いつも素直に示してくれていた。
私と離れることを、妻も寂しがるに違いない。
私は単純に、そう思い込んでいた。
しかし、列車が、M市の市街地に入ったとき。
妻は、なぜかハイテンションで、そわそわしだした。
丸く重いお腹をかかえながら、我々が座っていたボックス席の窓の外、それから、直ぐに身を乗り出して、反対側のボックス席の窓の向こうを、せわしなく、かわるがわる眺めだした。
そして、いちいち、こんなふうにつぶやいていた。
「あっ、新しい店が出来てる。えっ、こっちも変わったの?、何か、景色が変わってる!」
暫くぶりに見る、ふるさとの変化に、うきうきが止まらなかったのだ。
私の密かな寂しさなどは、お構いなしで。
一泊して、翌日、帰る私を、妻と、義父が駅まで見送りに来てくれた。
別れる間際の、義父と、妻の笑顔を、鮮明に覚えている。
私は妻に、淋しそうな表情を探した。
しかし、とうとう最後まで、にこやかな笑顔なだけだった。
義父の笑顔も覚えている。
考えてみれば、あの時の義父は、こんな気持ちだったと思う。
「娘のことは、任せてほしい。近いけど、帰りの運転も気をつける。孫が、元気に生まれるまで、オレもピシッとして頑張る!」
今にして、ようやく妻の気持ちもわかってきた。
妻の目線から想像すれば、直ぐ目の前に、私の、憂鬱な顔が見えてくる。
そう考えれば、妻が、私の気分に、気付かなかったわけがない。
しかし、それ以上に、出産という大仕事に向けて、高揚した気持ちだったのだ。
いつしか、M市の市街地に入っていた。
まっすぐ、裁判所へ向かった。
駐車場に、他に車はなかった。
建物の中へ入る。
人の出入りする雰囲気がない。
普段、訪れる人も、ごく少ないのだろう。
一階のカウンターで、かなり離れた窓際のデスクに座る人達へ、声をかけた。
出てきた女性に、相続放棄のことで、と説明すると、個室に案内された。
状況を素直に説明し、書類を受理してもらった。
お昼時となっていた。
また、埠頭の上の「海の駅」へ向かった。
昼ごはんを食べながら、考えた。
義兄が、今後の手続を、一人で進められるようにと、こうして子供達の相続放棄を急いでいる。
それは、この数年の、親戚付き合いを負担に思う、義兄の雰囲気を感じていたからだった。
時折、私から出す、ショートメールへの返事さへ、薄く、途切れがちだった。
ところが、最近、義兄の方から連絡が来るようになった。
葬儀日程の連絡などの他に、相続手続の、予想外の大変さを訴えるメールもあった。
もし、そうであるならば。
そもそも、今、私が手掛けようとしている仕事の一つは、相続の際に生じる手続を代行する、というものである。
勉強のためにも、義兄から、仕事として依頼してもらう形を取ったらよいのではないか。
そんなことを、この数日、考えていたのだ。
午前中、だめでもともとと、義兄に、ショートメールを出していた。
手続のため、M市まで来ている、という内容だけで。
食事を終えた頃、義兄から、返信があった。
儀礼的なものだったが、少し前であれば、こんなに直ぐに返事がくることはなかった。
丁度、昼休みのようだった。
直ぐ、ちょっと電話してよいか、とメールした。
そして、急いで食器類を片付けて、海の見える埠頭に出た。
周りに人影は無かった。
私が足を止めた場所から、左の方向を見れば、その先は、外海。
右の方を振り返ると、広い河口の風景が広がっていた。その向こうは、市街地だった。
湾と、市街地の境目に、建設中の巨大な水門があった。
震災の後、今後の被害を防ぐために、計画された工事である。
しかし、実はまだ、片側の岸の工事しか完成していない。
着工後、地盤の難しさがわかり、何度も何度も、工期が延長となっている。
前の仕事で、私も度々関わってきた。
ようやく完成が近付いている。
日差しには、春の兆しが感じられた。
海面が、ゆっくりとうねっていた。
少し向こうで、ウミネコが、あーあーと騒いでいた。
波に浮んで、ゆらゆらしたり、海面を低く飛び交ったり。思うまま、群れている。
チック・コリアのリターン・トゥ・フォーエバーというアルバムを思い出した。
1972年に発表された作品である。チック・コリアはジャズ、或いはフュージョンのピアニスト。
アルバムのジャッケットが印象的なのだ。
青い海面すれすれを、海鳥が一羽、滑空している瞬間をとらえた写真。
「リターン・トゥ・フォーエバー」という名称は、アルバムのタイトルであり(1曲目の名前でもあり)その後、チック・コリアのバンド名ともなっている。
深く考えたこともなかったが、思えば、とても意味深長なタイトルである。
訳せば「永遠へと回帰していく」というような意味なのだから。
このアルバムの中に「What Game Shall We Play Today」という曲も収められている。
明るく聞きやすい、女性ヴォーカルが歌う曲である。
最近、眠気を誘うために、夜、頻繁に聞いている。
この曲の歌詞も、深い。
Look around you my people, if you look then you will see, How to love.
(みんな、周りを見てみて。どんなふうに、人を愛せばいいか、きっと分かると思うよ。)
Life is paradise, All together, What game shall we play today?
(だって、人生はパラダイスなんだから。さあ、一緒に。今日は、何をして遊ぼうか。)
義兄から、メールが入った。
直ぐに、電話をかけた。
やはり、義兄は、手続に辟易していた。
葬儀の後、幾つかの役所の窓口を回ったが、その場で完結するような類いのものではないと、たしなめられたりもしたという。
必要となってくる手続やら、段取りやら、電話の話しだけで飲み込んでもらうのは難しかった。
私が置かれている状況や、考えていることなども、ある程度、分かってもらう必要もあった。
多くの説明の中で、私は、ふとこんな話し方をした。
M市まで、私が移動する交通費などまで、経費として請求するつもりはない。仕事を覚えるためでもあるから、気にしなくて良い。何より、義父も亡くなり、とうとうM市に来る理由がなくなった。それが寂しい。だから、よければ仕事として受けさせて欲しい。
そんな話し方をして、自分の言葉に、急に胸が詰まった。
「そうか。とうとう、このまちへ来る理由がなくなったのか。」
義父に感じてきた愛情に、嘘はなかった。
孫達を会わせねば、という気持ちも本当だった。
しかし、M市へ足を運ぶ気持ちの奥には、亡くなった妻の面影を、どこかに探す気持ちがあったのだ。そんな感情が、不意に、表に出た。
しかし、今は、流されている場合ではない。
切り替えないと。
遠くの水門を見上げ、電話を続けた。
義兄が、次に、M市まで来ることにしている日程を聞き出した。
その前後で、直接会って、相談しようという方針まで決めた。そして、長い電話を切った。
ウミネコが、まだ騒がしい声をあげていた。
それにしても。
相続手続という、少々面倒で、厄介な作業に直面し、困っている古くからの友人を、自分の知識を活かして助ける。そして幾ばくかの対価をもらう。
この循環。悪くないかもしれない。
今、それは、少し疎遠だった、義兄との共同作業となりつつある。
ある種の、大人の遊び、とすら思えてくる。
なぜなら、困難を(私と協力して)乗り越えた先で、義兄を待っているのは、義父が残してくれたお宝(預貯金)なのだから。
海辺の、少し冷たい風は、それでも春の気配を感じさせた。
片側だけ完成した巨大な水門を、遠く眺めながら、こんなフレーズが頭に浮んでいた。
What game shall we play today?
今日は、何をして、楽しもうか。
2026年3月某日
