№89 セレモニーホール(『ガチャピン』に想う)

ちえプロ

亡くなった義父は、今は、セレモニーホールに移動している。

早朝、そんなメールが、Tさんから入っていた。

そのセレモニーホールの名称には、見覚えがあった。
昨年、義父の家を訪ねた時に、裏道を歩いていて、偶然、出来たばかりのその建物を見かけた。

「過疎のまちで、セレモニーホールだけが、やたらと増えている」
ザラリとした気持ちになったのを覚えている。

空き家が増え続けるなら、追いかけっこするように、結局、綺麗に造ったセレモニーホールだって、いつか不要になっていく。

近くに住む住民を、ガバガバと飲み込んで、整理していく。
やがて片付けるものが無くなって、静かに、活動が止まる。

その時、そんな、セレモニーホールのイメージが頭に浮んだ。
そして、どうにも沈んだ気持ちになった。

M市までは、通常でも、車で2時間ほどはかかる。
圧雪で、速度規制にもなっているだろうから、今日、どれくらいで辿り着けるのか、分かったものではない。

寒波はまだ、去ってはいなかった。
幸い今日は、雪が抜け、朝から、冬の澄んだ青空になっていた。

長女は、試験があって、今日はどうしても休めない、という話しだった。
社会人となっている、長男と二男には、メールを出した。

もう、急いでも仕方がない。今後の予定が決まるのに、もう少し時間がかかるだろう。今日は、お父さん一人で、行ってくる。おじいちゃんが、セレモニーホールにいる間に、一度は、お別れをしてほしい。日程を聞いてくるから、職場の調整をすること。またメールする。

青空になってくれただけでも、有り難かった。
しかし、まず、マンションの駐車場で、雪の中から、車を発掘するのに苦労した。

気がせいた。
長時間のドライブとなるので、そのうち溶けるだろうと、車についた雪を、完全に、取り切れないまま、出発した。しかし、外気温が低すぎて、その後も、凍った雪はいつまでも溶けずに残った。

市内は、でこぼこに凍ったままの雪道が、延々と続いていた。渋滞で進まない。
やがて郊外へ抜け、流れはスムーズになったが、圧雪の緊張が続いた。

峠を越えて、沿岸部が近づくと、次第に雪はなくなった。
しかし、今度は、フロントガラスが、周りから跳ねた泥で汚れだした。

ワイパーは動くのだが、ウォッシャー液が出ない。
液が切れたか、もしかしてどこかが凍ってしまったのか。

視界の悪いフロントガラスに手こずりながら、苦労して、前へ進んだ。

途中、休憩して、外からワイパーの付近を確認した。
ウォッシャー液の噴出口が、凍った雪の塊で、塞がれていることに、ようやく気が付いた。

いつもの何倍も苦労して、M市までたどり着いた。
ほどなく住宅街の一角の、セレモニーホールを見つけた。

施設の中に入ると、段取りに慣れている、地元の顔役のTさんが、既に立ち働いていた。
義兄もいて、訪れる人達を迎えていた。

棺の中の義父に、手を合わせ、お水取りをする。
まにあわなくて、すいません。

義兄は、昨日、知らせを受けた後、車で、深夜かけつけたという。
私の倍、離れたまちから。雪の峠を、いくつも越えて。

しかし。
深夜零時前に着いて、病院へ行ったら、予約のない深夜の面会は認められていないと、断らたという。その後、ホテルで待機していたら、深夜1時、呼吸が止まったと連絡がきた、のだという。

ホールの中には、幾つか椅子が出してあり、駆けつけた人達が腰掛けていた。
見覚えのある顔。会うのは、私の妻の、葬式以来となる人達である。

奥の、座敷の向こうのソファーに、老夫婦が二人、座っていた。
こちらから、近寄って、挨拶した。
お久しぶりです、と。

義母の、一番下の弟さんと、その奥さんである。

高齢となった二人だが、私の中では、当時の妻の口調そのままに、○○おじちゃん、○○おばちゃんという呼び方が、今でも、そのまましっくりとくる。

おばちゃんの方は、お笑い芸人のオカリナと、ひらけポンキッキに出てくる、ガチャピンを足して2で割ったような風貌。

長く船に乗っていた、おじちゃんの方も、やっぱりガチャピンのような優しい目元である。
二人ともに、かわらない。

挨拶の後、おばちゃんが、○ちゃんが亡くなって、もう何年だべぇと、私をちょっと経由して、おじちゃんに訊ねた。

素直で優しいおじちゃんは、そりゃーおめー、と直ぐに答えを探して、頭を起動させている。
しかし、その後は、続かない。

私が引き取って、答えた。
震災のあと、ほぼ1年後に亡くなりました。だから、テレビで、もうすぐ震災から15年というようになれば、うちの方は、もうすぐ14年。そんなふうに、思い出してきました。

自分の言葉につられて、過ぎた14年が、一気に巻き戻った。
胸が詰まった。

義父のために駆けつけたのに、この涙は、あまりにも場違いだ。
そう考えて、そこは本気で、飲み込んだ。

近くにいたTさんに、今後の予定を聞いて、ごまかした。

1日開けて、明後日、通夜。
その次の日の朝、火葬をし、午後、葬儀をするスケジュールだという。

私は、その場は、それ以上に長居するつもりはなかった。

ただ。
一つ、義兄に見せたいものを、持ってきていた。

数日前に、Tさんから、電話で、こんな相談を受けた。

病院から、義父は、もう長くないと言われている。慌てないように、遺影にする写真を心積もりしたい。しかし、今の義父の家で、探すのは難しい。スマホか何かに、よさげな写真を保存していないか、と。

その後、使えそうな何枚かを、メールで送った。

義父の写真を探すうち、昔、妻が大事にしていた、古い写真を収めたアルバムを見つけた。
手に取るのは久しぶりだった。

昔ながらの厚い、クッションが効いた、赤い表紙。
透明のシートをペリッとめくって、プリントした写真をレイアウトして貼り付ける、いかにも昭和なスタイル。

それは、妻が、赤ちゃんだった頃から、小学校の低学年の頃までの写真を集めたアルバムだった。
妻の実家に置いてあり、泊まりに行ったときなどに、よく見せられた。

結婚後、何年かして、ある時、妻がマンションに持ってきた。
そして、そのまま押し入れの一角に、収まることになった。

妻は、そのアルバムを持ってくるときに、他のアルバムの写真と、多少入れ替えたらしい。
そして、自分が写っているものを中心に、整理はしたようだ。

しかし当然、義兄や義姉と並んで写った写真も多い。義父が写っているものもあった。

そのアルバムを、久しぶりに顔を合わせる、義兄に見せたいと思ったのだ。

なにより、そのアルバムは、妻の物というより、本当は、あの家に置いてあるべき、あの家の財産の一つであるように感じていたのだ。

これから遺品整理などもはじまるだろう。
その時、義兄が、あの古いアルバムはどうなっただろうと、思い出すこともあるかもしれない。

全部と言われては、さみしいが、もし、思い出の深い写真でもあるのなら、それは、渡すべきではないか。その時代の思い出は、本当は、義兄たちのものなのだから。

義兄に声をかけて、ホールの片隅のテーブルで、重みのある、赤い表紙を、一緒に繰った。

返して欲しい写真でもありそうかと、義兄の様子を観察していると、ただただ、穏やかな笑顔になっただけだった。満ち足りた様子だった。

アルバムは、私がそのまま、持ち帰ることにした。

そういえば、一つ、思い出すことがある。

妻が亡くなり、同じようにセレモニーホールに移った後のこと。
葬儀担当者に、至急、遺影にする写真を選んで、持ってきて欲しいと言われた。

写真を探しに、一人、家に戻った。
道すがら、そんな思い出の写真を眺め始めたら、きっと、号泣して止まらないだろうと想像した。

しかし、いざ選び始めてみると。
その一つ一つの妻の写真は、私に、何だか元気をくれた。笑顔をくれた。
葬儀の段取り中という現実すら、一瞬、遠くなっていた。

義兄と、Tさんに、明後日の通夜にあわせて、子供達と一緒に、また来るつもりでいることを話し、セレモニーホールを後にした。

午前中よりは、道路状況は、ずっと落ち着いていた。
考え事をしながらハンドルを握る、いつもの余裕も生まれた。

ふと、おじちゃん夫婦の顔が、頭にうかんだ。

妻のことばかり思い出し、義父には少し、申し訳なかっただろうか。

なーんも。なんも。

義父なら、ほぼ間違いなく、そんなふうに言うだろう。
確かに、しょうがないかもしれない。

あんなにも、リアルなガチャピン二人。
あんはふうに、素朴に見つめられたら。

誰しも、多少なりとは、キュンとならずには、いられないだろう。

2026年2月某日

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