№92 代襲相続(チック・コリア『Return To Forever』)

ちえプロ

義父の葬儀が終わって、その数日後。

私は一人、近くの地方裁判所へ、向かった。
相続放棄の手続について、教えてもらおうと思ったからだった。

本来なら、義兄と並んで、私の妻が、義父の相続人になる。
しかし、既に、妻は亡くなってしまっている。

この場合、私の三人の子供、つまりは義父の孫が、相続人に加わることになる。
これを代襲相続という。

このまま進めば、義兄と私の三人の子供の四人で、協力して相続の手続をしなければならなくなってくる。

しかし、遠く離れた町で暮らす義兄である。

義父が暮らしてきた、古い家や、多少なりとも残った財産の整理は、今後、休暇を取ったりしながら、義兄が、M市まで戻って、少しずつ進めることになる。

普段は、馴染みのない相続手続。

相続人全員の署名と、実印、そしてその印鑑証明が必要になることも多い。
書類作りに、いちいち引っかかっていては、義兄も切なかろう。

一番良いのは、私の子供三人が、相続放棄してしまうこと。
義兄が、自分のサインとはんこだけで、思い立ったタイミングで、手続を進められるように。

そんなことを、かなり以前から考えていた。
相続放棄は、三か月以内に、裁判所に申し立てる必要がある、ということまでは調べていた。

しかし、この段になったからには、ぐずぐずしてはいられない。
裁判所で、具体的に聞いて、前に進めるべき。
そう、考えたのだ。

その裁判所の中に入るのは、実に30数年ぶりのことだった。

一度だけ、法学部の学生の頃、中に入ったことがある。
夏休みに帰省していたとき、だった。

当時、講義の途中、ある教授が、こんな話しをした。
日々行われている裁判は、誰でも傍聴できる。勉強のために、一度、見学に行ってみたらよい。

そんな雑談を、真に受けたから、だった。

裁判所の中には、幾つも、小さな法廷が並んでいる。
各法廷の入り口には、その日行われる、裁判のスケジュールが表示される。

ただし、多くの裁判は、書面のやり取りだけで用が済んで、法廷には誰も姿を現さない、ということも多い。

夏休みのその日、私は、暫く裁判所の中をうろうろして、ようやく一つ、何かやっていそうな法廷を見つけた。小窓から中を覗いてから、思い切って、中に入った。

刑事事件の判決の、言い渡しをしているところだった。
道路交通法違反だったか、薬物違反だったか。

被告人は、若い男性。
傍聴席には、被告人の直ぐ後ろに、女性が一人。

執行猶予のついた判決だった。
反省を促す裁判官の言葉があり、幼さも見える男性は神妙に聞いていた。

女性は、裁判官の言葉に、いちいち頭を下げて、そして、泣いていた。
お母さん、だったと思う。

そんな場面を、思い出しながら。
その日、私は、お昼少し前、裁判所にたどり着いた。

中庭を抜け、正面の入り口へ。
手荷物検査などもなく、中に入れた。

11時20分を過ぎていた、と思う。

廊下の掲示で、簡易裁判所の相談窓口という表示を見つけ、階段を上がった。
簡単に、要件を説明した。

すると、相続放棄なら、もう一つ上の階の、家庭裁判所が所管している、との説明。

ふと、窓口の受付時間は、午前は、11時30分まで、という表示が目に入った。
確かに、12時まで、相談を受け付けていては、日々、昼休みはとぶだろう。

階段を駆け上り、家庭裁判所へ向かった。
出来れば、午前中に、済ませたい。

事務室の内部とを仕切る、狭いカウンター越しに、女性が一人、男性職員と、何だか、わーわーとやっていた。

駄目でもともとと、カウンターの向こうへ、声をかけてみた。
若い職員が反応し、出てきてくれた。
11時30分を過ぎていたが、嫌な顔もせず、対応してくれた。

一つには、管轄を確かめたかった。
また、何より、手続の厳格さの雰囲気をつかみたかった。

管轄は、義父の最後の住所地、つまりM市の裁判所になるらしい。
申請書への署名は、本人がするべきだが、他の記載は、例えば、私が代わりに書いても構わない、との説明。ある程度の、緩さもある様子。

説明を聞き終え、裁判所の中の、廊下を歩きながら、頭を整理した。

郵送も可能だが、やはり、私がM市まで行って、相談しながら書類を出した方がよいだろう。
そもそも私の立場は微妙なのだ。相続の当事者でもなく、代理人でもなく。

M市の裁判所で、本人から郵送で提出するように、とでも言われたら、それはしょうがない。
始めから郵送でやり取りしていて、不備があったりすれば、3か月という時間では、心許ない。

うろつくうち、小さな法廷が続く廊下に出た。
入り口には、裁判のスケジュールが表示されていた。

今日も、裁判自体は、沢山予定されているようだ。
しかし、人の気配は、まるでない。

どこも静かだった。

廊下の窓から、隣接する、私が長年働き続けた、かつての職場の建物が見えた。
裁判所の直ぐ隣は、地方議会が行われる建物になっている。

「議会棟」と呼ばれる、その建物。
出入りする時は、いつも、全身全霊で、身構えていた。
全力で、求められる役割を演じていた。

気付けば、永遠に思えた、そんな時間も、既に過去のものとなっている。
「私は、いったい何者になりたかったのだろう。」

裁判所の静かな廊下を歩きながら、そんなフレーズが頭に浮んでいた。

2026年3月某日

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